ベルクソンの純粋持続とフッサールの時間意識:Media Pointの虚軸相

ベルクソンの純粋持続とフッサールの時間意識:Media Pointの虚軸相と実軸相


テーマ:メディア・ポイントMedia Point


以前、ベルクソンの持続論は連続論であると批判したことがあるが、それは今でも正しいと思うが、単に連続論ないしは連続的差異論(ドゥルーズベルクソン哲学を受け継いで誤謬の大伽藍を築いたのであるが)として、それを批判するだけでなく、それを積極的に批判評価したい。
 直感で言えば、純粋持続とは、正に、Media Pointにおける様態を述べたものではないだろうか。

******引用開始******

(実在的な時間である)まったく純粋な持続とは自我が生きることに身を任せ,現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることをさしひかえる場合に,意識の諸状態がとる形態である.

そしてそのような純粋持続は,

質的変化の継起以外のものではありえないはずであり,それらの変化は,はっきりした輪郭ももたず,お互いに対して外在化する傾向ももたず,数とのあいだにいかなる血のつながりももたずに,融合し合い,浸透し合っている.それは純粋の異質性であろう.

http://www.geocities.jp/enten_eller1120/thema/time.html

第2章 時間論

勝手に哲学史入門

*******引用終了*******

上記の引用から、純粋持続とは、「質的変化の継起」、「純粋の異質性」と考えられているのであり、それは、Media Pointの特異性の記述であると考えられよう。
 それはまた、過去と現在の境界をもうけないときの心的状態であるが、それは、端的に、同一性化していない様態と言えよう。だから、やはり、Media Point様態と言えよう。
 しかしながら、ベルクソンは純粋持続を連続性と捉えるのであり、そこが、PS理論的には批判対象となるのである。(そう、この点でドゥルーズ哲学はまったくベルクソン哲学を継承しているのであるが、ドゥルーズ哲学がベルクソン哲学に劣ると考えられるのは、純粋持続の特異性をドゥルーズは言葉では継承するが、実質的には喪失しているからである。)
 思うに、純粋持続という考えは、不明瞭なのである。即ち、Media Pointの虚軸(差異共鳴性)と実軸(同一性)の即非様態があるが、純粋持続とは、虚軸相に示唆していると考えられるが、虚軸相のもつ差異共鳴性までは達していずに、それを連続性と考えているからである。
 確かに、「質的変化」、「純粋の異質性」という発想はMedia Pointの特異性を捉えているだろうが、それを、差異共鳴性ではなく、いわば、差異連続性と捉えていると考えられるのである。だから、不明瞭であり、不明晰であるし、誤りであると考えられるのである。
 以上が、PS理論から見た、純粋持続の批判的評価である。次に、簡単に、フッサールの時間意識、志向性に関連させておこう。 
 フッサールの時間意識・志向性は、純粋持続論から見ると、空間論になるだろう。つまり、時間から空間への転化を意味すると考えられる。
 これは、これまで、同一性志向性ということで述べてきたことである。だから、ベルクソンフッサールは、Media Pointを視点にして、統合的に包摂することができると考えられる。即ち、ベルクソンはMedia Pointの虚軸相を、フッサールはMedia Pointの実軸相を捉えていたと言えるだろう。ただし、ベルクソンは、虚軸相を連続化させる誤謬を犯していることを確認しておかなくてはならない。
 思うに、ベルクソン哲学は、PS理論から、批判的評価できるものと考えられる。それにより、トランス・モダンの一つの先駆に入れることができると考えられる。
 最後にハイデガーの時間論に極く簡単に触れておこう。ハイデガーの時間とは、端的に、「存在」と現存在の時間であり、根源的なのは当然前者である。
 しかしながら、「存在」は先に指摘したように、(+i)*(-i)⇒/+1における ⇒と/の接点の領域である。これは、Media Pointと同一性構造との中間領域であり、いわば、無の領域なのである。ここでは、エネルギーはいわば、「死」を秘めていると言えるのではないだろうか。そう、ニヒリズムである。【想起したのは、フロイトの「死の本能(死の欲動)」(タナトス)である。それは、ここから発しているように考えられる。そう、心病の神経症性もここから発しているのではないだろうか。あるいは、ドストエフスキーの異常な登場人物たちの性格もここから発しているのではないだろうか。これは検討課題である。】
 では、端的に、「存在」の時間とは何だろうか。やはり、「無」の時間であろう。「無」からの「創造」であろう。ただし、この「創造」は真の創造ではなく、同一性の反復である。
 そう、だから、Media Pointへの予感はあるものの、真の創造の源泉には到達できないので、同一性を反復するのである。(ここで想起したのは、アルベール・カミュの不条理である。これも、「存在」=「無」から発すると考えられる。)
 だから、これは、経済的には、同一性価値経済・同一性主義金融資本主義になると考えられるのである。結局、ハイデガー哲学とは、経済的には、近代資本主義を意味していると考えられる。

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持続
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
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持続(じぞく、仏 :durée)とは、一般に、長く保ち続けること、長く続いていることを意味する。また、ベルクソン 哲学の主要概念の一つであり、間断なき意識の流れ を意味する。

純粋持続と真の時間

たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、こま切れにしたりすることはできない。このように概念や言葉から離れて内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れ を感じる。その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、止めようなき自発、能動によるものである。これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。

この純粋持続は、空間 的に表現できるものではない。というのも、空間化とは数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、それはもはや流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって、古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。したがって、真の実在認識は、(もちろんカント のいう感性的直観 や悟性 によってではなく)超知性的な直観 によって可能となる。

[編集 ] 持続と自由

ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由 の源泉である。通常、自由といえば、選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想であり、生命 の自由な持続に即したものではない。生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、「現在 」において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての純粋自我による行為である。

他方、物質界は一瞬前の過去を惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。物質は「自らを破壊する」のに対して、生命は「自らを形成する」。つまり、生命には、「物質が降りていく坂を登ろうとする努力」をみることができる。宇宙の万象は、この持続の種々の緊張による多様な創造的進化 の展開なのである。そして、緊張の極にあるのが、エラン・ビタール (生の躍動)である。

[編集 ] 関連項目

* エントロピー
* 実体
* 無意識

[編集 ] 参考文献

* アンリ・ベルクソン(中村文郎訳)『時間と自由』(岩波文庫、2001年)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B6%9A " より作成
カテゴリ : 哲学の概念