なぜ、「自己」は、差異を否定した自我であろうとするのか。

なぜ、「自己」は、差異を否定した自我であろうとするのか:ver2:一部言い回しを訂正



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自己→他者というのが自己の差異の様相である。換言すると、志向性である。しかるに、自己は、他者を否定して、自己同一性即ち、自我であろうとするのである。本来、自己即非 他者であるにもかかわらず。つまり、自己と他者との差異共振シナジー様相であるにもかかわらず、これを否定して、反差異的同一性である自我であろうとするのである。これで、独立した個人と考えるのである(倒錯)。

 ここには、自己内界の他者の否定があるので、自我は、いわば、自己否定 の様態にあるのである。ヘーゲル 的に言えば、自己疎外の様態にあるのが自我 、とりわけ、近代的自我 である。自我とは、倒錯であり、自己独立を錯覚 しているのである。一人称 自己認識方程式を使用すれば、(i)*(-i)⇒+1に対して、(i)*-(-i)⇒1が自我倒錯の数式である。自己同一性とは、この場合、(i)のことではないだろうか。-iである他者を否定して、自己同一を形成し、自我 、自我倒錯となるのである。以上は、これまで確認されてきたことである。では、本稿のテーマ である差異否定の原因・理由・起源 について、あらためて、考察しよう。

 (i)*(-i)であるが、これは、メディア 空間である。内在超越的なメディア 空間(差異・共振・シナジー空間)である。これは、現象的には、身心空間である。あるいは、精神 空間である。精神内には、「魂」ないし「心魂」があるのである。これは、感受性、共感性と呼ぶことができるだろう。いわゆる、心とは、ほぼこれを指すと言ってもいいだろう。あるいは、ロマン主義 の説く想像力の源泉と考えることもできる。【思うに、耽美 主義は、特に、フランス 耽美 主義は、一種アイロニカルな没入によって、自我主義、反差異的同一性に陥っているのである。世俗のブルジョワ 的俗物 性を憎み美的 世界に耽溺するのであるが、しかし、それは、同時に他者を喪失するので、(i)*-(-i)⇒1になっているのである。正に、デカダン の倒錯の世界に陥っていると考えられるのである。ユイスマンスの『さかしま』は、タイトル から象徴的である。】即ち、(i)*(-i)とは、感受性、精神 的感受性を意味すると考えられるのである。これは、実に霊妙であり、また精妙なものであり、いわば、宗教 、芸術、詩、等の根源というべき源泉である。当然、これは、繊細であり、傷つき易いものである。受苦性、ヴァルナラビ リティvulnerability である。しかし、忘れられているが、それが、力の源泉であることである。活力・活動・「エネルギー」の源泉であると考えられるのである。特異性、単独性、不連続的差異 性である。自己特異性と呼べるものである。

 つまり、(i)*(- i)とは、ニーチェディオニュソス 的なものと呼んだものの 源泉であると考えられるのである。端的に言えば、ディオニュソス である。(ニーチェの『悲劇の誕生 』をなぞれば、ディオニュソス 的な古代ギリシア 人は、(i)*(-i)の精神をもっていたと言える。)受苦と力の源泉としての(i)*(-i)である。

 しかるに、人間は一般に受苦を恐れるから、これをガードして、いわば、蓋をするのである。隠すのである。隠すとは、無いこととすることであり、否定である。即ち、他者を否定することであるから、(i)*-(-i)⇒1である。(i)*-(-i)= (i)*(i)という自己同一性ないし自己二重性が形成されるのである。これは、他者の位置に自己を置いているのであるから、二重人格となっているだろう。ジキルとハイドである。つまり、最初の(i)がジキル博士 (善人の仮面 であろう)で、後者の(i)がハイド氏(悪人)である。なぜなら、-iという倒立像を隠蔽しているからである。倒立像を隠蔽して、自己像を投影 しているのである。

 この自己同一性=自我 の徹底化が、近代的自我 であり、ここから、近代的合理主義や唯物論が発生するであろう。そう、これが、近代主義の原型である。結局、差異否定、自己同一性の志向性の原因とは、受苦への反感・反発・反動にあったのである。そして、他者を否定する反動 ・暴力 ・倒錯・欺瞞的な自我 になったのである。反差異同一性=自我 =近代的画一性=全体主義が支配するのである。他者を否定すること、これは、非合理主義、非「科学 」主義である。つまり、不思議 なことに、近代科学 は非合理主義、非「科学」主義なのである。反差異同一性量=「物質」を対象としているからである。あるいは、反差異(連続 )同一性量=「物質」的科学と言えるだろう。このように見ると、ニーチェ が近代科学 を忌み嫌った理由がわかるだろう。つまり、受苦=力=ディオニュソス を回避した科学であるからである。有り体に言えば、弱者 (「賤民」)の科学 なのである。また、フッサール が『ヨーロッパ 諸学(諸科学 )と超越論的現象学』で、近代科学 を批判したのも理解できるのである。他者を否定した科学 がここにあるのである。「卑怯者」の科学 である。また、カントの『純粋理性批判 』が、理性のアンチノミー を説くのもわかるのである。理性は、正に、差異ないし(i)*(-i)の理性であり、即非理性なのであるからである。そして、後に、ウスペンスキー がカント 哲学 を発展させる形で書いた、アカデミズム からは黙殺されている『ターシャム・オルガヌム 』も理解できるのである。

 さて、

反差異同一性量=「物質」と、上述した点であるが、以上の考察は、人間の志向性を基盤としているが、それを他の現象にも適用できると仮定した上でのことであるが、「物質」とは、反差異的同一性とその数量化である、現象の差異を否定した現象同一性の数量化されたものである、あるいは、現象の質を否定された数量的同一性であると述べているのである。すなわち、「物質」とは、現象の反差異的同一性数量面(p.s. 数量化された、反差異的同一性)に過ぎないのである。現象の差異的同一性=質性を捨象した抽象である。そう、受苦=力=差異を否定した連続 的同一性、これが悪魔 なのである。そう、劣弱さである。劣弱さが、悪魔 なのである。怯懦である。

 視点を換えれば、無知 である。無明である。智慧・叡智の喪失 である。智慧なき状態である。もし、差異共振 シナジー智慧やその社会 があれば、精神 の弱者も、それなりに悟ることができるだろう。思うに、大乗仏教衆生 の救済とは、そのような意味 があったのだろう。また、イエスの活動も本来それであったのだろう。神の国 とは、差異共振 シナジー空間のことと考えられるからである。また、スピノザ 哲学 の意味もこれである。他者を能動的把捉すること、これで、(i)*(-i)⇒+1が形成されるのである。