イエス・キリストについて

ここで、「神」をプラトニック・シナジー理論から理論化しておくと、イデア界の神とメディア界の神の二種類があると以前述べたが、前者はカオスに、後者はコスモスに相当するだろう。しかし、このカオスはコスモスを生む秩序性をもっているのである。いわば、カオスからコスモスへである。カオスとしての神は、コスモスとしての神を発現するので、また、後者が、直接、人間に関係すると考えられるので、ここでは、メディア界の神に限定したい。つまり、差異共振シナジー様態全体としての神である。そして、このエネルゲイアの神を、これまで、多様に表現してきたのである。多神教であれ、一神教であれ、汎神論であれ、アニミズムであれ、・・・。すべて、「神の仮面」である。万教帰一である。
 では、この観点から、即ち、相対的多元論の観点から、イエス・キリストを見るとどうなのだろうか。やはり、キリストも、神の一面に過ぎないのである。では、どういう一面なのだろうか。私の直観では、イエスは、差異共振シナジーをそれなりに体現していた人物である。共振シナジー叡知を体現していた人物である。つまり、プラトニストである。しかし、純粋なプラトニストではないように思えるのである。混濁したプラトニストのように思えるのである。どういうことかと言えば、イエスには、連続・同一性の構造が残存していたと思えるのである。つまり、自我の構造がイエスにはあったと思うのである。つまり、差異と同一性の矛盾がイエスには、あったと思うのである。だから、意外に、デカルトに似た人物であったように思えるのである。
 同一性・自我があったからこそ、「汝(自我)自身の如く、隣人を愛せよ」になるのだと思う。純正なプラトニストならば、純粋な差異共振シナジーを体現する人物ならば、「愛」を説教をせずに、自己認識の必要を説くだろう、仏教のように。どうも、俗物性があったように思えるのである。イエスには、虚栄心があったように思えるのである。そう、おそらく、イエスは、善と悪との混淆である。メディア/現象境界の両義神である。おそらく、分裂症的な人格をもっていたと思う。一方では、差異共振シナジーエネルゲイアをもっていたが、それが、連続・同一性志向性によって捩じ曲げられていると思う。本来は、差異共振シナジー的共感性を説くべきであるのに、自我的隣人愛を説いているのであるから。やはり、聖霊教の方が、はるかに、イエス教よりも、優れていると思うのである。イエス・キリストは、神の連続・同一性の仮面をもっていたと言えると思う。