ヴィジョン、美、光に関して

今日、電車の車内で、思った。
美とは、私の内奥にあるのだ。それを、外的他者に投影しているのだ、と。そして、帰途の道路を渡りつつ、光は、やはり、内なる光の、いわば、表皮として、存すると。


やはり、プラトンの考えは正しいのだ。イデア界があるのである。しかし、このイデア界は、DDPS理論では、メディア界・差異共振界の「イデア」である。形容すれば、宝石のような「イデア」である。あるいは、零度共振シナジーとしてのイデアである。ここで、明快に区別した方がいいだろう。イデア界のイデアは、プロト・イデアであり、メディア界・差異共振界のイデアは、シナジーイデアないしメディア・イデアである。より分かりやすくするために、後者を単にイデアと呼び、前者をプロト・イデア、祖イデア、原イデア、等を呼ぼう。そうすると、プラトンイデアと、一致する。これは、光り輝くイデアである。阿弥陀如来の光と共通しよう。
 しかし、この光は、当然ながら、現象の光ではないのだ。このイデアの光を、人間は、肉眼では、現象の光と知覚すると思うのである。(ここでは、理論的というよりは、直観で述べたい、というか、私の直観経験から述べたいと思う。)
 思うに、人間、主体の内面に、イデアの光があるのである。イデアの光線があるのである。そして、これは、また、コスモスの光でもある。ダンテの天上の光は、これであろう。
 問題は、このイデアの光と現象界の光の関係である。わかりやすくするため、イデアと現象光と呼び分けよう。直観で言えば、イデア光が現象光に終極化しているのであるが、イデア光すべてが、現象光に変じているのではない。思うに、イデア光を感じない鈍重な人は、すべてが現象光であると認識するだろう。しかし、繊細な感覚の人は、内面のイデア光が現象光に投影しているのがわかるはずだ。これは、正に、プラトンの洞窟の比喩に相当するだろう。そう、洞窟外の善のイデアである太陽とは、イデア光のことだろう。では、洞窟内の火や人形は何だろうか。思うに、それが、超越境界である構造である。超越論的同一性構造であると思う。これが、洞窟のスクリーンに投影されて、仮象を「幻燈」させているのである。
 そう考えると、プラトンは、今からおよそ二千五百年前に、脱構造主義を説いていたことになるだろう。不連続的差異論の真正の先駆者としてのプラトンであろう。あるいは、プラトン哲学の真正の継承としてのDDPS理論である。つまり、整理すると、


洞窟の比喩2


プラトンの洞窟の比喩》

1.善のイデア(洞窟外の太陽)/2.洞窟内の火と人形/3.洞窟のスクリーン上の影像(仮象


洞窟の比喩3


《DD/PS理論(不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論)》

1.イデア光(零度差異共振シナジー)/2.超越境界同一性構造/3.現象界


洞窟の比喩


両者の1〜3は対応するのであり、さらに、不連続的差異論の構成にあてはめると、1はメディア界であり、2はメディア/現象境界であり、3は現象界である。
 ここで、思うに、1の領域は、倫理の領域であると同時に、美の領域であり、また、真の領域である。正に、真善美の領域である。(思うに、ヌース理論の半田氏がヴィジョンで見たものは、1であろう。しかし、半田氏は、1と2との混同して、1の善のイデアイデア光を、量子力学の光子ないし素粒子として、唯物論化しているのである。目覚めよ、半田氏! 換言すると、半田氏はドゥルージアンであり、差異=微分の連続・同一性の仮象を、真実在と幻想しているのである。「ポストモダン」なのである。)
 1の領域は、何度も既述したように、仏教の光と重なると言えよう。そして、私見では、ゾロアスター教の光と重なるのである。しかし、これも、既述だが、キリスト教の光は、これではないと思う。これは、2か3と思うのである。
 さて、最初の問題に戻ると、私が車内で、構内で、美しい女性を見たとしよう。この美は、実は、その女性の美というよりは、私の内面のイデア光が照らし出した美なのであり、本来の美は、私の内面のイデア光にあるのである。その女性の美とは、仮象に過ぎないのである。その美しい女性は、イデア界の美を示唆していると言えよう。いわば、イデア界の象徴である。ここで、ついでに言えば、ネオ・プラトニズムで、天上のヴィーナスと地上のヴィーナスの区別をするが、これは、私が今述べたことと重なるだろう。車内、構内の美しい女性は、地上のヴィーナスであるが、真実在は、天上のヴィーナスなのである。つまり、言い換えると、後者の投影としての前者、つまり、天上のヴィーナスの投影としての地上のヴィーナスということである。(参考:
http://lib.seisen-u.ac.jp/library/collection/c_venus.htm
http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/text/yomi/1220014_1.htm
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~ssuzuki/ClassLecture/Matriachy_Myth_Hyuga_Transformation_Venus.htm
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/botticelli_venere.html
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/060225.htm
http://72.14.235.104/search?q=cache:Et6XbFPlgrIJ:src-home.slav.hokudai.ac.jp/coe21/publish/no12/02_mochizuki.pdf+%E5%A4%A9%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B9&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=13&lr=lang_ja&client=firefox
http://d.hatena.ne.jp/antares/20051203


ヴィーナスの誕生
http://es.wikipedia.org/wiki/Imagen:La_naissance_de_V%C3%A9nus.jpg


http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Primaver.JPG

【私は、ここで、アレゴリー論を少し展開したい。私の中で、アレゴリーと象徴が混淆しているのである。イデア論から見ると、車内・構内の地上のヴィーナスとは、イデア光のヴィーナスの投影である。ここで、地上のヴィーナスにウェイトを置けば、それは、天上のヴィーナスを指し示すものであり、象徴・シンボルである。しかし、天上のヴィーナスにウェイトを置けば、地上のヴィーナスは、アレゴリーになるだろう。そうならば、アレゴリーと象徴・シンボルの相違は、視点によるだけであり、一致すると言えるのではないだろうか。】
 では、イデア光とは、何であろうか。これと現象光の関係は何だろうか。これも、既述したが、同一性形式を経て、イデア光が現象光になるのだと思う。この同一性形式が、アインシュタイン光速度一定を意味するのではないだろうか。すると、イデア光は、当然、無限速度であろう。図式化すると、

イデア光→同一性形式→現象光

である。零度差異共振シナジーの同一性形式が相対性理論ではないのか。思うに、同一性形式とは、カントの超越論的形式と一致するのではないだろうか。とまれ、これが、超越構造形式あるいは構造物質形式と言えよう。そう、この同一性が光子なのではないだろうか。E=mc^2 である。すると、イデア光はどうなるのか。それは、数式化できるのか。イデア光は、零度差異共振シナジーであり、無限の原エネルギーである。とまれ、今は、作業仮説的に、イデア・エネルギーと呼んでおこう。イデア・エネルギーが、同一性化して、現象光エネルギーEになると言えるだろう。作業仮説的に、イデア光のメディア平面から垂直の方向に、同一性化があるとして、イデア光のエネルギーをSとすると、Si=E となる。即ち、S=E/i である。
 さて、では、イデア光と太陽はどう関係するのだろうか。推察するに、イデア光の原点ないし中心の現象化が太陽ではないだろうか。あるいは、Z軸、ないし、Y軸虚軸の現象化が太陽ではないだろうか。後で検討したい。