自然=神のもつ「悪」について:プラス・エネルギーの同一性・二項対

自然=神のもつ「悪」について:プラス・エネルギーの同一性・二項対立暴力自我形成とコギトの新エデンの園


[ ポスト・ユダヤキリスト教文明 ]



これまでの議論から、プラス・エネルギーが、同一性=二項対立暴力自我を形成するということになった。これは、悪であるから、自然(=神)が悪の原因であることになる。思えば、グノーシス主義は、この宇宙は、邪悪な創造神デミウルゴスが創造したと考えているが、それは、限定的には、正しいだろう。そう、さらに、想起すると、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』で、善悪両面をもつアブラクサスという神(これも、グノーシス主義の考え方)が唱えられていた。
 確かに、アブラクサスという両義神という考え方は、これまでの検討から見ると、的確、適切な考え方のように思える。しかし、私は、さらに、何故、「悪」を生む必要があるのかということを問題にしたい。確かに、プラス・エネルギーの必然によるが、その意味があるはずである。
 この問題は、古代父権神話を哲学することから、解明されるだろう。父権神話以前に、母権・女神神話が、普遍的であった。母権・女神神話とは、プラトニック・シナジー理論(以下、イデアシナジー論)から見ると、それは、零度差異共振シナジー界=メディア界(・メディア空間・メディア平面)に相当すると考えられる(現在の仮説であるが)。
 しかし、自然=神(これは、メディア平面の神である。イデア界の神、言わば、元神、プロトゴッドは、どうなのだろうか。)は、その極性から、プラス・エネルギーを発現し、この母権・女神の世界を破壊したのである。もし、共振シナジー界が継続すれば、人間は、調和に満ちた平和の世界に生き続けたことだろう。思うに、聖書で説かれているエデンの園とは、この差異共振シナジー界の世界を指しているのだろうし、有り体に言えば、地上楽園は、存在していたのである。
 本稿の問題に答える前に、この「エデンの園」の精神・社会様態を推察してみよう。考古学・人類学・美術史からわかるように、これは、文字以前の時代である。通常、文字の獲得を人間の知の発達のメルクマールとしているが、必ずしもそうではないだろう。確かに、文字言語によって、人間のある種の知性・知識は発達したことは確かであるが。文字以前の社会とは、イメージ・ヴィジョン・イマジネーションの精神社会世界だと推察される。そこでは、今日の現象界とはまったく質的に異なっていたと考えられるのである。簡単に言えば、万民芸術家の精神社会世界である。D.H.ロレンスが、古代イタリアのエトルリアの墓地の壁画にヴィジョン洞察したものが、そのようなものであろう。平和共存の世界である。絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったり、また、愉しい経済生活をしていただろう。これが、イデアシナジーの「エデンの園」の世界である。
 しかし、自然=神の必然から、野蛮な父権の社会が襲来する。インド・ヨーロッパ語族・アーリア民族が世界を侵略・蹂躙する、現代、USがアフガン、イラクに襲来したように。
 もし、野蛮な戦争を生み出しただけなら、自然=神は断罪に値し、グノーシス主義は、まったく正しい教義となる。
 では、このおぞましい犠牲によって、どんなポジティブなことがもたらされたのか。ひとことで言えば、自我であろう。それも、同一性自我である。そして、これは、実は、悪魔なのである。つまり、人類は、人間は、悪魔になったのである。人間・人類の悪魔化、これが、生じたのである。ホモ・サピエンスのサピエンスとは、悪魔の知であったのである。だから、核爆弾を造ったのである。父権主義化とは、悪魔化であるとはっきり言えるのである。だから、現代、世界は、凄惨陰惨、おぞましく、悲劇的なのである。これを見据えなくてはならない。虚偽・欺瞞的なヒューマニズム性善説は否定されなくてはならない。悪魔としての人間である。
 とまれ、プラス・エネルギーによって、同一性・二項対立暴力自我が誕生したのである。これは、人類史において、まったく、新しい事態であったと言えよう。(そう、人類史が、連続史であるのかどうか疑問である。複数の不連続史であったと見た方が正しいように思うのである。)この同一性自我化とは、現象界的自我の誕生である。それまでは、メディア界的自我をもっていたのである。換言すると、コスモス的自我をもっていたのであるが、それが、衰退して、現象界的自我となったのである。おそらく、これは、一挙に生起した事態ではなくて、徐々に生起したことと考えられる。つまり、メディア界と現象界が平行して存在し、後者が前者を徐々に凌駕する世界を迎えたということである。そして、この決定的ポイントが、西洋における近代科学の誕生である。コペルニクスガリレオによる近代自然科学の誕生である。これで、メディア界=コスモスは完全に崩壊し、消失したのである。そして、それが、今日まで続くのである。
 さて、この同一性自我・現象界自我のことであるが、そのポジティブな意味は、結局、物質主義、物質的知性・技術を生んだこと、これに尽きるだろう。Material Worldである。換言すると、メディア界・コスモスを否定した物質現象界の自我知性である。
 では、なぜ、これが発生する必要があったのかである。これは、深遠な意味があるだろうが、思えば、これは、イデア界の絶対的差異のもつ絶対的自我と関係があるように思えるのである。フッサール現象学ノエシスノエマの純粋意識ないし原意識の問題である。思うに、この絶対的自我意識・純粋意識・原意識が、同一性自我の形成の基盤にあるように思えるのである。同一性自我は、デカルト哲学のコギト・エルゴ・スムと深く関係するといえよう。このコギトが、絶対的自我意識・純粋意識・原意識と関係すると思うのである。「我思う」これが、ポイントである。しかし、これは、すぐに、同一性自我=近代的自我に変容した。この「差異」が最重要である。「我思う」は、イデア界的自我・原自我なのであるが、それを、デカルトは、近代的合理主義に結びつけて、近代的自我としてしまったのである。コギトと近代的自我は、決定的に異なるのである。即ち、イデア界と現象界の違いであると思うのである。この点に関しては、唯物論者の柄谷行人が天才的に鋭敏、慧眼であったと言わなくてはならない。彼は、デカルトのコギトに単独性を見たのである。これは、彼の独創的な発見か指摘であろう。
 ということで、プラス・エネルギーは、悪魔主義であり、物質主義と共に、コギトを生んだのである。これが、決定的な積極性と考えられるのである。コギトは、近代的自我ではなくて、イデア界的自我なのである。ノエシスノエマなのである。原神である。これは、ヤハウェの積極的本質であると考えられる。そう、ヤハウェは、悪魔であるが、半面、原神であったのである。「父」=イデア界である。
 メディア界=共振シナジー界の極性を考えると、プラス・エネルギーが同一性、マイナス・エネルギーが差異とすれば、正に、太極の世界、双極・双対性の世界であり、陽の半面に陰があるのである。この陽=同一性の内部の陰=差異が、絶対的自我・イデア界・原神であると言えるだろう。これが、プラス・エネルギーの積極的意味である。ならば、マイナス・エネルギー化する世界・「宇宙」とは何を意味しているのだろうか。
 それは、これまで述べたように、イデア界へと回帰しつつ、新たな差異共振調和の世界への志向ということである。新エデンの園である。


参照:

1)ヘルマン・ヘッセの『デミアン
http://www.amazon.co.jp/%30c7%30df%30a2%30f3/dp/4003243552/sr=8-8/qid=1157417458/ref=sr_1_8/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=gateway

2)アブラクサス
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/y1-abrax.html

3)グノーシス主義
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/sop-gnos.html

4)D.H.ロレンスの『エトルリアの故地』
http://www.bk1.co.jp/product/479581
http://72.14.235.104/search?q=cache:YUPhK2ithEoJ:www.h6.dion.ne.jp/~shim-his/europe.pdf+%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%95%85%E5%9C%B0&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&lr=lang_ja&client=firefox


画像以下から。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Tree_of_Life_Medieval.jpg.jpg

完全画像版は以下です。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016653999.html