強い差異と弱い差異

強い差異と弱い差異


今は、とりあえず、簡単に触れておこう。
 これまで、主に、メディア界の極性エネルギー論でこの問題を考えてきた。それは、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーの極性論である。即ち、プラス・エネルギーは、連続・同一性を形成し、マイナス・エネルギーは、それを解体して、差異共振性を形成するという考えである。
 しかし、先に、劣弱な差異と優強な差異という二元性を導入した。明快にするために、弱い差異と強い差異と呼ぼう。いったい、弱い差異と強い差異とはどういうことなのだろうか。簡単に言えば、エネルギーの度合いの違いだろう。プラスとマイナスのエネルギーを考えると、原エネルギーの強弱と言えそうである。
 では、原エネルギーとは何か。とりあえず、零度エネルギーとしよう。これは、プラスにも、マイナスにも、転化するエネルギーである。ここで、作業仮説すると、零度エネルギーの度合いの相違が個によって異なるとしよう。例えば、差異1は、零度エネルギーを1000、差異2は、10000をもつとしよう。単純に考えて、差異2は、差異1よりも、差異エネルギーが強いと言えるだろう。
 この意味するものは、差異2は、差異1よりも、多様な構成・連結性をもちうるということではないだろうか。つまり、質的に豊かであるということではないだろうか。これが、強い差異と弱い差異の違いではないだろうか。即ち、強い差異とは、弱い差異よりも、多様な質をもつということではないだろうか。
 問題は、差異共振性の強弱、有無、多寡である。思うに、多様な構成・連結性をもつということが、差異共振性の強弱、等に関係するのではないだろうか。つまり、多様な構成・連結性が、差異共振性の強弱そのものに通じるのではないだろうか。単純に考えて、差異2は、差異1より、十倍多様な構成・連結が可能と言える。この十倍の多さが、正に、差異共振性の強弱と通じるだろう。例えば、図式化すれば、

差異2:差異2+差異3,差異2+差異4、差異2+差異5,・・・、差異2+差異12=計10連結

差異1:差異1+差異3=計1連結

となり、差異2は、10個の差異連結をもち、差異1は、1個の差異連結をもつにすぎない。つまり、差異2は、差異1よりも、差異共振性があると言っていいだろう。
 では、プラス・エネルギーの連続・同一性を考えるとどうだろうか。やはり、十倍の違いが出るだろう。これは、主体の感受性と関係するだろう。差異2は、10個の同一性を許容できるが、差異1は、1個の同一性しか許容できないだろう。そして、差異1は、許容できない、同一性を経験すると、処理できずに、非合理的に反発するだろう。
 そして、これを、さらに、多様な差異を対象とした場合は、差異1の非合理性は増加するだろう。なぜなら、差異1は、一個の差異としか結合できないから、それ意外の差異に対しては、非合理に反発するだろうからだ(これが、ルサンチマンだろう)。
 どうやら、このような方向の考え方でよさそうである。当たらず言えども、遠からずであろう。つまり、やはり、強い差異と弱い差異との相違とは、零度エネルギーの相違によるということである。そして、これを敷延するなら、西欧近代とは、弱い差異が支配的になったということだろう。そのために、多様な差異、差異共振性が否定・排除されたと言えるのではないだろうか。
 後で、さらに検討したい。