同一性構造と自我と西欧語:主体(「わたし」=自我)と客体(対象)

同一性構造と自我と西欧語:主体(「わたし」=自我)と客体(対象)との関係
テーマ:差異と同一性


たとえば、「わたし(自我)」とは、どこから発生するのか。この問題は、デカルトのコギトがやはり、近代における原点であるが、差異と同一性の弁証法構造であるメディア/現象境界を中心にして、考察しよう。
 何度も言及したように、そこは、差異1・同一性・差異2ないし差異1=差異2という構造をもっている。本来、差異は、他者への志向性であり、差異1→差異2の→の志向性をもち、これが、いわば、知即存在の様相をもつのである。認識と存在の不可分一体性である。フッサールノエシスノエマである。この様相が、メディア界にあるが、それが、ゼロ→無のMP境界力学において、どうなるのだろうか。
 わかりやすく考えると、「わたし」は、差異と同一性の二項対立構造において、どのように発生するのかである。本来、「自我」あるいは、根源的自我は、差異に存している。差異の志向性(ノエシスノエマ)にある。それが、MP境界では、同一性によって否定・抑圧・排除・隠蔽されるのである。つまり、「自我」は、差異否定の同一性自我となるのである。そして、他者である差異にも同一性自我を押しつけるのである。同一性自我暴力である。仮想敵国に通じる見方である。
 結局、+エネルギーの力学によって、同一性が差異を否定するように作用するのであり、それが、同一性自我=近代的自我の形成である。しかし、デカルトのコギトは、単純に同一性自我ではない。デカルトはコギトに特異性を見ている。つまり、デカルトのコギトは、基本的に不連続的差異である。イデア界的である。しかし、デカルト懐疑主義は、メディア界的ゆらぎを否定して、特異性と同一性とを結合したコギト即スムの哲学を導いたのである。これは、主客二元論的である。奇妙な言い方になるが、特異性的同一性自我によって、主客分離しているのである。以前、ヌース理論の半田広宣氏が触れたと思うが、この同一性から他者の差異に対して、延長(質料)が発生している。また、差異における同一性において、思惟(知覚・認識)が発生している。つまり、差異即同一性の弁証法構造(差異と同一性の二項対立:カント哲学)によって、近代的自我、近代的合理主義、主客二元論、観念論/唯物論近代主義が発生したのである。
 ということで、主体と客体の近代的二元論において、主体=自我は、差異1→同一性であり、客体=他者は、差異2→同一性である。しかし、注意すべきは、この同一性自我は、差異=潜在意識を内在させていることである。つまり、差異1⇔→同一性←⇔差異2という構造がここにあり、差異1⇔→同一性が自我であり、同一性←⇔差異2が他者である。⇔が、潜在性を意味するのである。
 とまれ、差異1⇔→同一性である自我主体があり、同一性←⇔差異2の他者客体があるのであり、これが、近代的主客二元論である。デカルト主義である。ただし、何度も言うと、デカルトのコギトには、特異性がはっきりと刻印されていることである。つまり、差異性が基盤にあるのである。デカルトルネサンス性である。
 ここで、主体自我と客体他者との区別が明確に説明できたので、西欧語について考えよう。これは、明確に、主体(主語)→客体(目的語)の言語である。因みに、この言語構造が、思うに、西欧で近代主義が発生したことの要因の一つと思われるのである。とまれ、主体自我から客体他者(対象)への関係作用が→であるが、これは、西欧近代主義において、同一性作用・力学である。即ち、主体自我・同一性(=→)・客体対象である。主体と客体との同一性関係が、西欧近代主義なのである。そして、同一性関係が、述語ないし述語動詞である。例えば、英語で言えば、I look at the tree. の場合、look at が、同一性関係作用である。同一性主体自我であるIが、他者であるthe treeの差異を否定して、他者を同一性化しているのである。つまり、メディア界においては、差異1の自我と差異2の他者が、共振して即非関係にあるのである。つまり、「わたし」と「その木」との共振していて、分離しつつ共振・共感しているのである。アニミズムの状態にあるのである。しかし、同一性関係作用であるlook atは、その共振差異、メディア界の差異を否定して、差異2に同一性を適用して、差異2を客体対象化するのである。延長的客体対象であるthe treeが発生するのである。換言すると、同一性化された差異である自我が、同一性の視点で、他者の差異を観察するのであり、差異空間、差異時空間を延長空間に変換させているのである。即ち、同一性主体である I は、見る look at という同一性関係行為によって、他者である差異 the tree を差異時空間から延長という同一性空間に置いているのである。
 さて、問題は、時間である。時間はどこから発生しているのか。メディア界のエネルギーが不可分の時空間であると考えられるから、同一性によって、差異共振時空間を否定して、他者客体において、延長空間を形成したならば、メディア界のエネルギーによる生成変容・変化が、延長空間にも、発現するはずであり、延長空間における他者客体の変化が、時間の根源現象であると考えられるのである。メディア界のエネルギー変化が時間の原因であるということになる。差異対極エネルギーが、いわば、運動力になるだろう。差異対極エネルギー的螺旋的変容が、延長空間における運動となるのである。例えば、ケヤキの木の生長が、運動である。ここに時間が発生していると考えられる。つまり、延長と時間は同時発生であろう。あるいは、延長の変化を、同一性の思惟が観測する単位が時間ではないだろうか。即ち、延長という同一性の空間単位が発生し、この空間単位に基づく、延長空間の変化の単位が時間単位ではないだろうか。だから、空間時間である。空時である。そして、この「時空間」、4次元「時空間」とは、メディア界の発現であるから、ゼロ度共振エネルギーである量子の強度を内在しているのである。相対性理論は、量子力学へと導くだろう。E=mc^2=hν である。そして、メディア界は、粒子「即非」波動の世界なので、現象界の粒子観は成立しないのである。非局所性の考え方は、一種カントの純粋理性に似て、カテゴリー・エラーだと思われるのである。メディア界においては、局所性/非局所性の二元論が成立しないからである。すると、ポスト量子力学の新しい知・科学が考えられるだろう。それが、不連続的差異論的科学、ヌース理論的科学である。ポスト・モダン・サイエンスである。
 思うに、メディア界は、差異対極性エネルギーの螺旋的立体空間ではないだろうか。ここで、螺旋という根源現象が発生していると考えられるのである。D.H.ロレンスが、『死んだ男』で表現した宇宙の暗い薔薇とは、メディア界宇宙の表現であろう。そこでは、差異と差異とが即非の関係で捩れて、共立しているのである。思うに、原点(0,0,0)が、太陽系の原点、宇宙の原点であろう。太陽や恒星とは、思うに、メディア界、否、イデア/メディア境界の発現ではないだろうか。虚軸として、太陽や恒星が発現しているのではないだろうか。差異のゼロ度共振波動の点的表現が太陽や恒星ではないだろうか。この点は、後で、検討したい。