弁証法構造と同一性構造:メディア/現象境界の弁証法構造の超克とポ

弁証法構造と同一性構造:メディア/現象境界の弁証法構造の超克とポスト・モダン理論


先の考察では、メディア界は、光知/光の差異の領域となった。光知=思惟であり、光=延長である。そして、これが、現象界では、分化して、思惟と延長の主客二元論が発生するのである。問題はこの分化の意味である。ゼロ度の徹底として、この分化があるのであるが、それは、同一性衝動である。差異と差異との空間をゼロ度から無へとする衝動である。これは、1/4回転による必然的衝動と言えるだろう。この同一性衝動の帰結として言語が発生するのである。とりわけ、表音文字言語である。
 問題は、この同一性衝動の力学である。これは、メディア界の差異を否定・無化する暴力をもつのである。他者である差異を否定・無化する暴力力学をもつのである。即ち、同一性による二項対立の発生である。西洋二元論の発生である。(ところで、先に、メディア界と現象界の境界として、弁証法構造を説いたが、これは、メディア界的対極性構造と現象界的同一性構造の混淆・折衷構造であり、あいまいな構造である。即ち、メディア界的側面をもっていたり、現象界的側面をもっていたりする、不明確な、一種虚偽的な構造なのである。倫理的には、無責任な構造である。差異であったり、同一性であったりするからであり、自我中心主義に利用されるからである。虚偽・ペテン・欺瞞構造とも呼べるだろう。これは、他者だけでなく、自我をも騙す構造なのである。これは、政治家、役人、マスコミ人、文化人、知識人等の精神構造とも言えるだろう。有り体に言えば、二重人格ないし多重人格構造である。そう、日本人の指導者層は、このタイプの人間に満ち満ちていると言えよう。これは、換言すれば、父権的自我構造である。
 ここで、付加すれば、この弁証法構造は、両義的であるとは言え、同一性衝動が主導的になるので、同一性構造の方が、対極性構造より支配的であるのである。また、この構造は分裂的であると言えるのである。一方で、他者を肯定しつつ、同時に、他者を否定するのである。しかし、支配的なのは、他者否定性=同一性なのである。即ち、他者・差異を肯定する姿勢を顕示する(パフォーマンス)が、実相は、他者・差異の否定・無化という暴力なのである。あくまで、他者・差異の肯定は、ポーズに過ぎず、主体・中心は、自我同一性主義・利己主義なのである。これは、権力者の「精神」である。
 もっとも、これは、無自覚の構造であり、傲慢の構造であり、自滅の構造なのである。自我は、他者・差異のためにあると錯誤しつつ、利己主義を行為するのである。無意識のうちに、専制的になっていて、暴君になっているのに気がつかないのである。独裁者の構造なのである。
 だから、この弁証法構造とはもっとも危険な構造であると言える。ヘーゲルマルクス弁証法が、どんなに、人類に災厄をもたらしたかは、想像を絶するのである。そして、キリスト教三位一体にも、この弁証法構造があると思えるのである。汝自身の如く隣人を愛せよ。これは、正に、弁証法構造であろう。隣人は差異であるが、それを自我=同一性とせよということである。
 問題は、弁証法構造と同一性構造との違いである。前者は対立物の統一の思想をもつ同一性構造である。同一性構造は確かに、暴力的構造であるが、前者のイデオロギー性はもっていない。前者は、他者・差異への志向の見せかけをもっているから、規模が全体的、全体主義的になるのである。同一性構造だけなら、例えば、言語同一性を考えればいいのであり、これは、誰でも日常行なっている暴力である。しかし、弁証法構造の暴力は、はるかに、たちが悪いと言えるのである。それは、利他的な見せかけをもっていて、他者や自己自身を欺くからである。つまり、イデオロギー一神教的宗教の構造なのである。これは、ほんとうにたちが悪いのである。自己を善と思っているからである。
 この弁証法構造を解体するための知恵が必要なのである。仏教が、もともと、このような脱構造の知恵であったと言えよう。現代では、ポスト・モダンがそのような知恵を志向したと言えよう。結局、ポスト・モダンとは、同一性構造と弁証法構造を超克するものであったと言える。しかし、それは、後一歩で、挫折してしまったのである。その原因については、これまで述べてきたのである詳述しないが、簡単に言えば、対極性構造(=東洋思想)まで、ポスト・モダンやポスト構造主義は進んだのであるが、そこで、留まったのである。即ち、ニーチェフッサールはその先の根源的差異まで進んでいたのであるが、ポスト・モダンはそこへ進展する途中で留まってしまい、根源的差異を十分に理解できなかったのである。
 結局、不連続的差異論によって、ポスト・モダンは根源的差異に到達して、ニーチェフッサールの高みを回復して、根源的差異イデア論となったのである。フランス的ポスト・モダンの混乱を超克して、東西統一的ポスト・モダン理論が創造されたと考えられるのである。そして、現代は、ポスト・モダンに対する反動の時代となっているのである。弁証法/同一性構造主義者が、支配的なのである。理論的最前線がへたれているのである。今や、不連続的差異論の時代となったと言えよう。東西文明、文系・理系を統一する超理論である。そして、多様な分野・領域へと創造的に展開することで、絶対的パラダイムの変換、パラダイム相転移を形成していくだろう。これは、人類・地球進化となるだろう。