《狂気》とは何か:何処から狂気は発生するのか

人間は、誰もが、多かれ少なかれ、狂気をもっている。つまり、人間の定義は、狂気動物lunatic animalであることがおそらく正しいだろう。ホモ・サピエンスは、西洋文明の傲りによる考え方であろう。
 さて、本件であるが、簡単に言えば、感情移入性に狂気があるのではないだろうか。enthusiam熱狂である。思い込みである。この原因は何か。同一性であろう。同一性志向である。つまり、本来、差異が実在しているが、それから同一性へと飛躍するのである。この飛躍が狂気なのである。差異と同一性の間には、隔てがあるのである。この隔て、境界を知ることが、本当の知性である。理性である。しかし、この隔てを無視して、同一性へと転換する発想、即ち、思い込みが狂気なのである。ほとんどの人間をそうであるから、基本的に人間は、狂人である。
 差異、不連続的差異への恐怖・不安が人間にはあるのであり、それを、連続性や同一性で埋めるのである。差異に耐えられないのである。しかし、差異から創造が生まれるのである。天才は、差異を固持する人である。凡人は同一性を固持する人であり、狂人である。そう、差異は、不連続的差異は、単独であり、孤独である。これに、凡人=狂人は耐えられないのである。肩書きや役割や社会的認知が欲しくなるのである。猿真似である。
 この同一性への思い込みは、一種信仰である。自己信仰である。狂信性である。問題は、この思い込みの原因である。これは、何か。ディオニュソスと言ってもいいのだが、人間の受動性にあるのではないだろうか。受動被害性にあるのではないか。つまり、心性の問題である。心性は、多様な刺激を受ける。それは、心性を、差異化、多元的に差異化するだろう。おそらく、弱い心性は、それに対して、防御する、構える、ガードするのである。これが、同一性を信仰させるのだろう。つまり、多様多元的な内外的刺激を受け止められないのである。つまり、刺激に反動化してしまうのである。攻撃的になるのである。これは、男性に多い反応である。父権的反応である。スピノザ哲学から言えば、悲哀の感情が発生して、反動化するのである。簡単に言えば、苦痛・苦悩・苦である。苦に耐えて、認識すること、これが、叡知である。つまり、多様多元的な刺激があり、その差異を肯定すること、その多元的な差異を肯定することが、叡知である。思うに、心性とは、プラトンの言うコーラである。受容器である。これは、多種多様な感覚を生むだろう。これは、メディア界だろうか。私は、イデア界であると考えたい。イデア界は、デュナミスであり、無形である。そこから、有形化するのである。メディア界には、原型性が発生しているだろう。「霊」である。
 整理すると、狂気とは、イデア界=コーラである心性、原心性が、多元多様な差異・苦に耐えられずに、同一性を信仰する宗教的態度であると言えるだろう。これは、何か、サルトルの自我の志向を思わせる。即ち、否定・アンチテーゼの志向性である。対象を否定する態度である。以前に、高貴な差異と劣弱な差異に分類し、女性は本来前者であり、男性は後者であると考えたが、これは、ここでも、通用するだろうが、高貴な心性と劣弱な心性に分けた方がいいだろう。あるいは、真理への志向と同一性の志向である。現代日本人は、圧倒的に、後者であり、愚人的狂人である。認識・知性の勇気が欠落しているのである。差異から同一性・思い込み・狂気へと短絡してしまうのである。
 結局、狂気とは、心の弱さに起因があると言えよう。そして、男性はそのようなものである。父権主義はそのようなものである。アメリカの覇権主義は、心の弱さの裏返しである。ニーチェ的に言えば、賎民的弱者の反動暴力主義である。つまり、覇権的強者とは、心性の弱者・劣弱者である。世界は転倒・倒錯しているのである。これは、父権主義、とりわけ西洋父権主義、ユダヤキリスト教一神教に拠ると言えよう。ニーチェはまったく正鵠を射ていたのだ。キリスト教は、賎民・ルサンチマンの宗教である。