同一性他者模倣と鏡像段階について:自我と他者との一致と双対的差異

同一性他者模倣と鏡像段階について:自我と他者との一致と双対的差異排除


本件を整理すると、同一性構造によって、自我は差異を排除して成立する。しかし、先に同一性構造は、他者模倣すると述べたが、この点は、正しいだろうか。同一性を強制するという点は正しい。本当に、同一性自我は他者を模倣するのだろうか。そうではなくて、他者を同一性として見るのではないだろうか。というか、自我→他者であり、他者→自我ではないだろうか。ヌース理論の双対性である。つまり、同一性構造とは、自我=他者であり、他者=自我であるという交互作用ではないか。模倣ではなくて、一致がここには生じていると見るべきだろう。同一性構造とは模倣ではなくて、一致・等号の世界である。この一致は、他者は「私」であり、「私」は他者であるということである。無・差異である。後者の「私」は他者であるという点で、一見模倣のように見えるのであろう。しかし、模倣ではない。「私」は、他者そのものなのである。この「私」と他者との、言わば、二重人格性が、同一性自我に生じていることであろう。ということで、先に述べた、同一性自我の他者模倣という考えは訂正されなくてはならない。同一性自我の他者一致が正しいのである。自我である他者があり、他者である自我があるということであろう。これが、同一性構造の現象であろう。ヌース理論を借りて、同一性双対構造とも言えよう。
 この同一性構造暴力は、自我である他者の場合は、他者(差異)を自我として見るという点にあり(他者差異の排除)、他者である自我の場合は、自我(差異)を他者として見る点にある(自己差異の排除)。ここには、他者否定と自我否定のに二重否定がある。還元すれば、他者という差異(差異2)の排除と、自我という差異(差異1)の排除の、二重排除がある。差異は、メディア界に通じているのであり、相補性が排斥され、特異性・単独性が排斥されていて、イデア界との接点が切断されているのである。この同一性構造の二重差異排除が、同一性構造暴力である。世界を同一性・画一性で、埋め尽くそうとするのである。
 では、同一性自我のメディア界はどうなっているのだろうか。もちろん、潜在・内在の状態であり、抑圧されているのである。しかしながら、ポストモダン・エポックにおいては、メディア界が賦活されているのである。つまり、差異が活発になるのである。そして、これは、死のエネルギーと考えられるから、メディア界の差異は、同一性自我を解体しようとする。そして、反動的に、同一性自我は差異をより排除する。ここでは、死のエネルギーの解体作用と同一性自我の反動排除作用とがぶつかり合って、激しい葛藤が生じるのである。そして、これが、今日の精神・社会病理であると考えられる。同一性自我(近代的自我)に留まる限り、暴力・狂気と枯渇・衰滅があるだけである。
 差異を涵養する《叡知》や理論を獲得しない場合、この下降から脱出できないだろう。差異的想像力の涵養が必要であるし、また、差異の理論が必要なのである。創造性とは、根本的には、イデア界から生じるもの(新しい順列や組み合わせ)であるから、同一性自我は、非創造的である。不毛である。先に、差異を涵養し、自我を陶冶するものとして、古典教養をあげたが、それだけでは、不十分で、差異の理論もあげなくてはならない。差異涵養は、古典教養の《叡知》と差異理論が必要なのである。
 現代、差異なきものは淘汰される。差異なきものは、退化する。差異を育成・成長させた者が勝利するのである。