差異知性の創り方

問題は、言語である。言語知性である。メディア/現象境界、即ち、同一性構造において、言語知性が発達する。思うに、チョムスキー生成文法の深層構造とは、ここにあるのではないだろうか(メディア的相補性から現象的同一性への変換構造が「生成構造」ではないか)。とまれ、問題は、同一性構造が、言語獲得を通して、同一性知覚を形成していることである。このとき、差異が排除されるのである。これは、同一性暴力である。あるいは、同一性言語自我中心的暴力である。これが、デリダの攻撃したロゴス中心主義であると考えられる。(しかし、同一性言語は本当は、ロゴスではない。ロゴスは、少なくとも三種類ある。イデア・ロゴス、メディア・ロゴス、現象・ロゴスである。)
 問題は、同一性言語自我知性に潜在する差異(メディア界的相補性とイデア界的特異性)のことである。同一性自我に対して、差異は内在して、言わば、自己主張する。同一性自我と差異との争闘がある。デカルトのコギト(我思う:エゴ・コギト)は、同一性自我による「思考」ではなくて、同一性自我と差異との闘争性においてある思考であると考えられよう。即ち、コギト=同一性/差異である。つまり、コギトにおいて、認識と存在との相互関係が問題になっているのである。ここで、便宜的に、同一性を思惟、差異を存在・延長と見てもいいだろう。(ここで、半田広宣氏の思惟/延長の卓抜な説明を想起してもいい。)
 デカルトのコギトは、本来、近代的自我(近代的主客二元論的合理主義的自我)というものでは全くなくて、言わば、差異的自我であり、さらに言えば、特異性なのである。自己における差異つまり特異性に則した自我思考なのである。 
 ここまで、言うと、同一性言語自我の問題がはっきりする。つまり、これは、近代的自我として帰結したのである。差異を排除する同一性自我=近代的自我である。そして、これが、近代的合理主義となり、近代的科学・技術と結びつき、近代的資本主義を形成する。また、同一性自我とは、ユダヤキリスト教の超越神ヤハウェの「自我」と同型なのである。メディア界から現象界への転化構造が共通なのである。
 問題が複雑なのは、イタリア・ルネサンスが、近代の直前に発生したことによる。何度も述べてきたが、イタリア・ルネサンスとは、差異の発動である。メディア界の発動である。それにより、心身活動が賦活されたのである。しかし、この差異の発動は、デカルトに典型的なように、差異と同一性との二重性を帯びていたのである。そして、これが、一方では、近代的自我、プロテスタンティズムへと転化し、他方では、差異・特異性の文化・社会の発動となったと考えられるのである。即ち、西欧近代ないし欧米近代は、この分裂二重構造をもっているのである。それらが、入れ子構造になっていると見てもいいだろう。複雑なのである。民主主義も、自由主義も、合理主義も、この入れ子分裂二重構造をもっていると見るべきである。だから、単純な二項対立的な西洋批判は、無意味なのである。
 結局、この近代二重構造の解体を、ポストモダンないしポスト構造主義は志向したと言えるだろう。即ち、同一性/差異構造という近代主義に対して、同一性の暴力・権力性を指摘し、批判し、差異中心主義を説いたのである。近代主義の批判的解体としてのポスト・モダン、ポスト構造主義であった。そして、それは、同一性構造批判ということでは正しかったのである。しかし、問題は、デリダ哲学でわかるように、アポリア(難問)を抱えていたのである。それは、差異を同一性言語で思惟するということである。ここで、同一性を差異で解体したのであるが、その解体の手段の言語が同一性言語であったのである。ここで、デリダ哲学は、袋小路にぶつかったのである。同一性と差異とのメビウスの帯・輪の状態になったのである。これでは、同一性を批判しても、同一性は生き延びるのである。
 また、ドゥルーズ哲学の場合であるが、これも何度も述べたので、簡単に言うが、差異それも特異性を指摘したにも関わらず、連続的差異と特異な差異とを明確に区別しなかったために、混濁してしまったのである。(不連続的差異論から言えば、イデア界とメディア界の混同・混淆である。)
 問題は、差異の徹底化にあったのである。キルケゴールニーチェフッサールのような個の徹底化を基礎としなくてはならなかったのであるが、ポストモダンポスト構造主義は、そこを見落としてしまった。結局、皮相な相対主義にほとんど留まったのである。本当の問題は、特異性、単独性としての差異であったのである。デカルト哲学はそれを問題としていたのである。特異性としての個の問題である。特異個の問題である。これこそ、真のポスト・モダニズムの問題であった(ある)のである。グローバリゼーションによって、世界資本主義は、交換価値の同一性を世界に暴力的に押しつけているのである。特異性の差異が否定されているのである。連続的差異(メディア界)は同一性へと転化して、資本主義を潤しているのである。つまり、ポストモダンポスト構造主義は、連続的差異(メディア界)に留まったとすると、それは、世界資本主義に利用されたと言えるだろうし、世界資本主義(情報資本主義)と平行であったとも言えるのである。
 結局、ポストモダンポスト構造主義の失敗・行き詰まり・挫折・頓挫があるのである。これは由々しき事態である。グローバリゼーションに対抗する理論が崩壊してしまったのであるから。
 問題は、特異性の差異を明確に構築することである。それは、差異の不連続化によって形成されるのである。不連続的差異によって、特異性が独立する、半田氏の言葉を使えば、直立するのである。絶対的差異が生起するのであり、これによって、近代主義を完全に超克できるのである。ポスト・モダニズムが完成するのである。ポストモダンのプロジェクトがこれで、再生復活するのである。
 後で、もう少し検討したい。