ライブドア問題を哲学する:3:反動・憎悪・利己主義的ポストモダン

ライブドア問題を哲学する:3:反動・憎悪・利己主義的ポストモダンと能動・歓喜・共生的ポストモダン


ポストモダンの袋小路・行き詰りに対して、不連続的差異論は、差異の不連続化によって、メディア界からイデア界へと知を包摂的に高位化することを説く。この点は、既に述べた。ここでは、別の視点から、2つのポストモダンを考えたい。
 それは、スピノザの『エチカ』の視点である。即ち、主観性の反動性と能動性の区別の視点である。弱い心性、即ち、憎しみ、反感的心性であるか、強い心性、即ち、歓び、共感的心性であるかの視点である。前者は、不連続的差異論で言うメディア界を、否定・反動的にする。これは、ニーチェルサンチマンの様態である。問題は、このとき、イデア界とメディア界の関係はどうなるのかである。本来、メディア界は、イデア・メディア境界を介して、イデア界に接しているのである。そして、イデア界は、不連続的差異の共立・共存している根源界であり、それは、差異共存性の志向性をもっていると考えられるのである。(これは、また、フッサールの説く志向性、間主観性に通ずると考えられる。)
 差異の共存志向性は、基本的には、歓喜として経験されるのだろう。なぜ、悲哀として経験されないのだろうか。悲哀から歓喜が生まれるだろうか。憎しみから喜びが生まれるだろうか。逆であろう。根源に歓喜、喜び、至福があるから、悲哀、憎しみ、絶望が生まれるのだろう。この点を理論化しよう。
 イデア界は、多数ないし無数の不連続的差異であるイデアが境界を隔てて共立・共存している根源的領域である。(この状態を、調和、原調和と考えてもいいが、いわば、不調和の調和discordia concordである。)しかも、ここは、差異と差異とが、無限速度の根源的力によって、共立・共存しているのである。ドゥルーズガタリが述べた離接の反復がここにはあると言ってもいいのではないだろうか。境界がありながら、接するという状態である。そして、接するとは、差異の1/4回転を意味するのだろう。とまれ、境界がありながら、接するという状態であろう。しかし、これは、空、ゼロ度とは違うのである。境界に無限速度の力が作用するのである。そして、この根源力は、差異を離接させて、差異の原知を形成していると思われるのである。つまり、差異とは、原知覚であり、根源力によって、いわば、全知をもっているのである。これは、原思惟性であろうし、境界が原延長であろう。そして、根源力をともなって、差異は、イデア界は、原思惟/原延長の包摂理念を形成しているのである。思うに、一つ一つの差異が、原思惟/原延長的包摂理念であると同時に、イデア界全体が、多数・無数の差異から構成される原思惟/原延長的包摂理念となっていると考えられる。プラトンの言う善のイデアとは、この原事象を指しているものと考えられるのである。また、美のイデア、真理のイデアもここにあるだろう。【イデア界の原事象は、一見、ライプニッツモナドの予定調和状態に似ている。しかし、モナドは無窓であるが、差異は有窓である。いわば、壁窓である。そして、モナドは、いわば、超越神によって統一されるのである。つまり、モナド論は、キリスト教の哲学的展開である。そして、また、これは、閉塞的ポストモダンに通ずると考えられる。モナド多文化主義)と超越神(原理主義)の相互依存があると考えられるからである。】
 さて、ここで、歓喜の問題に戻ると、歓喜とは心性の感覚である。心性とは思惟に関わることであり、感覚とは、身体、即ち、延長に関係するものである。だから、歓喜とは、思惟と延長の両面に関わるものである。イデア・メディア境界において、心身は、イデア界に接する。このとき、完全体を「視る」あるいは、「触視する」のだろう。(ヴィジョンを見ると言えよう。因みに、ideaの語源はvideo見ることである。)この時、心身には、イデア界からの有限のエネルギー(エネルゲイア)が流出・発出されるだろう。この、いわば、イデア界のヴィジョンのエネルギーが、歓喜であろう。これが、心身にとり、根源的なのである。先ず、一義的に、歓喜があり、そして、反動的に、二義的に、悲哀が生じるのである。光が歓喜であり、影が悲哀である。後者は、正に、シャドウである。本来無いものである。(ここで、ゾロアスター教を想起するのも誤りではあるまい。光明のアフラマズダ・善神の影としてのアフリマン・悪神であろう。そして、「最後の審判」であるが、これは、あるサイクルを表現しているのであり、全体ではないと見るべきだろう。多数の「最後の審判」があると考えられるのである。一神教の「脱構築」である。)
 結局、心身の根源に、イデア界から発出する歓喜のエネルギーがあり、それが、本来的であり、それに対して、悲哀という反動が生じるのであり、歓喜のエネルギーへの反動として、否定の力となるのである。即ち、暴力である。これが、暴力の発生であり、また、父権制の起源であり、また、ユダヤキリスト教の起源でもあろう(ただし、ゾロアスター教は、上述の考えから、反動的起源はないと考えられよう。ゾロアスター教は、思うに、多神教一神教との中間的なもののように思える。とまれ、ゾロアスター教は、本来的である。歓喜的である。思うに、ゾロアスター教を憎悪・反動からねじ曲げたのが、ユダヤ教ではないだろうか。この点に関しては、後で検討。)
 さて、ここで、本論に戻ると、歓喜と悲哀(憎悪)の二視点から、ポストモダンを見るということになるが、歓喜ポストモダンと憎悪のポストモダンということになるだろう。前者は、イデア界に通じている。後者は、反動であるから、イデア界に通じていないのである。前者の光明のポストモダンに対して、暗黒のポストモダンである。
 では、どうして、後者が発生するのだろうか。これは、メディア界の発生の問題でもある。ここでは、近代以後におけるメディア界の発動を問題にしているのである。近代主義は、主客二元論的科学主義である。これは、人間の主観的精神性を問題にしていない。つまり、死角、空虚があるのである。主観性の不満足である。近代主義が飽和すると、この主観性の空虚から、精神的欲求が発動する。これが、ロマン主義であったり、ファンタジーであったり、万民の幸福を願う救世的な理想であったりする。道徳・倫理的衝動と言ってもいい。これらの主観的欲動が、即ち、メディア界の欲動である。つまり、イデア界を起源にするメディア界の欲動がポストモダンの欲動として発現するのである。
 では、どうして、メディア界から暗黒のポストモダンが発生するのだろうか。この問題は、新興宗教の問題等と関係して、実に本質的な問題である。あるいは、宗教一般や革命思想一般に通じる重大な問題である。この問題は、やはり、歓喜と悲哀の二元論で解明できるだろう。近代主義は、いわば、メディア界の歓喜を排斥して、反動・憎悪によって形成されるのである。近代主義の基底・基盤には、反動・憎悪があるのである(D.H.ロレンスが『チャタレイ夫人の恋人』でこのことを述べている)。そして、近代主義の飽和によって、主観性・メディア界の欲動が解放される。そして、この主観性・メディア界の欲動は、近代主義の基底の反動・憎悪性を帯びてしまうのである。つまり、反動・否定的なメディア界的欲動が発動されるのである。これが、暗黒のポストモダンとなるのである。そして、これが、新自由主義やIT企業と結びつくのである。つまり、近代主義の裏返しとしてのポストモダンであり、ダークなのである。
 問題は、ここには、暗黒しかなかったのかということである。ここは、微妙な問題であるが、先にも、ライブドア問題・事件に関して述べたことから考えると、ホリエモンは、おそらく、最初は、不連続的差異であったろう。つまり、彼なりに、歓喜のエネルギーがあったはずである。しかし、また同時に、日本経済の「社会主義」体制に反感をもち、憎悪を感じていただろう。ここに彼の暗黒性があるのである。つまり、歓喜と憎悪が入り混じっていただろうが、後者が前者をはるかに凌駕していたと思われるのである。結局、ホリエモンライブドアポストモダンは、歓喜ではなくて、暗黒のポストモダンになったと考えられるのである。(このことは、小泉「改革」にも言えるだろう。)
 この問題に対する答えは、明らかである。メディア界の歓喜・光明化である。そして、さらに、個体・差異の不連続化である。つまり、メディア界からイデア界へと知性を移行させることである。言わば、不連続的スピノザ主義である。(マルチチュードという思想も、ここに根拠をもつことができるし、そうしないと、連続主義という反動性をもってしまうのだろう。)これは、不連続的差異の共立・共生・共存・共創を志向するものとなるだろう。つまり、差異の民主化である。歓喜ポストモダン的民主主義である。そして、歓喜ポストモダンとは、真正のポストモダン、ポスト・ポストモダンないしオーバー・ポストモダンとなるだろう。