人間の悪について:ポスト・ユダヤ/キリスト教と世界ルネサンスへ向

これまでの自我論から見ると、自我という悪は、差異共存志向の冷暗化によって生じるということであった。では、何故、近代西欧米において、これが、著しく増加したのだろうか。差異共存の冷暗化、あるいは、メディア界の冷暗化が、強化されたということになるのだが、その原因は何か。
 ここで、観点を変えて考えよう。では、何故、自我悪は、自身を正しいと思うのであろうか。何故、自我悪は、自身を義や善として振る舞うのだろうか。偽善・独善主義である。そのメカニズムは何だろうか。そう、差異共存志向性の冷暗化で述べたことをここで想起すればいい。つまり、誰にでも本来、差異共存志向性という善、本善、原善はあるのである。これは、仏性と言ってもいい。性善説である。しかし、これが、捩れて悪へと転化するのである。すなわち、善が悪と転化するのである。だから、性悪説とも言える。(性善説性悪説は等価である。)
 とまれ、この冷暗化において、個体は、被害意識をもつのである。生得的喜びを否定された個体は、被害者意識をもち、反感をもつのである。反感とは、自己の存在が否定されたことへの反動であるから、そして、反感は自己の存在を取り戻そうとする衝動を内在させる。この反感・反動的自己存在復権衝動は、復讐でもあるが、独善・独断的衝動であると言えよう。つまり、反感独善衝動を反動性としてもっているのである。そして、これが、連続・同一性化という現象化と結びついているのである。連続・同一性は、必然的に生起する現象化であり、個体を形成するものである。しかし、そこに反感独善衝動・反動暴力が加わると、自我、自我悪魔となるのである。
 さて、以上のように考えて、当初の問題に戻ると、何故、自我悪は自分を正しいと思うのかということであるが、もはや自明的になったが、反感独善衝動が当然、自己を義と錯誤させるのである。反感独善衝動即ち自己善錯誤である。つまり、反感独善衝動が、盲目的反理性的衝動であり、個体はいわば、自己善、独善性に憑かれていると言える。
 では、先の問題、なぜ、近代西欧米に、自我悪が増加したのかという疑問を考えると、西欧とは、北の地域であり、自然の諸生産力が乏しいのである。だから、人間の精神も、必然的に、暗くなるのである。また、キリスト教という冷暗化の肯定の宗教が、入っているので、なおさら、西欧の精神は暗いのである。この精神の冷暗化がベースにあると考えなくてはならない。そして、近代であるが、これは、西欧の場合は、宗教改革と見なくてはいけないと考えている。アルプス以南、イタリアにおいてルネサンスが勃興した。そして、この人間・学芸復興運動は、西欧にまで伝わった。このイタリア・ルネサンスとは、差異の発動である。キリスト教に抑止されていた差異が、商業等を介して、点火したのである。そう、個=差異の自由運動がイタリア・ルネサンスである。これが、暗い西欧に達して、西欧は、それへの反動として、宗教改革を起こしたのである。この差異への反動が、近代西欧米を発生させたのである。差異、個、特異性への反動こそ、西欧近代主義であり、ここに自我悪が増加した原因を求められるのである。差異への反動、これが、自我悪の意味である。そして、これが、グローバリゼーションに帰結し、今や、郵政民営化路線と帰結しているのである。そう、反動である近代主義のどん詰まりが、郵政民営化問題なのである。これを乗り越えなくはならない。これは、必然である。今や、自我悪魔たちが跋扈している。これを乗り越えて、イタリア・ルネサンスを継承しないといけない。差異の運動である。これは、当然、世界・地球・国際ルネサンスとなる。そして、グローカルルネサンスである。差異の復活である。日本の復活、日本の独立運動、ニッポン・ルネサンスである。

 初めに差異ありき、差異は神とともにありき、差異は神であった。

新約聖書 『新・ヨハネ福音書

p.s. 妄想という現象も、反感独善衝動から生まれるのではないか。本人が妄想として思い込んだものに対して、何を言っても無駄である。思うに、妄想とは、実に一般的にあると思う。小泉氏の郵政民営化とは、妄想以外の何ものでもないだろう。自我主義の人は、妄想人である。社会に害悪となる。妄想人に政治を行わせないように、選択しないといけない。

p.p.s. 以上の自我悪論から、ユダヤキリスト教を究極的に解体できそうだ。キリスト教批判は、ニーチェの「アンチ・キリスト」が有名であるが、不連続的差異論によるユダヤキリスト教批判的解体論は、ニーチェD.H.ロレンスルサンチマン論の系譜にあるが、また、スピノザ哲学の系譜にもあるが、結局、ヤハウェという超越一神とは、反感独善衝動による宗教的表象であるということになるだろう。つまり、イデア界の力の反動でもある反感独善衝動が、連続・同一性という現象化へと志向と結合した自我衝動の表象がヤハウェ、超越一神であるということになろう。だから、ヤハウェ、超越一神、ユダヤキリスト教とは、ニーチェがいみじくも洞察したように、究極的な悪魔の宗教である。邪教である。そう、かつて、私は、超悪魔的宗教と呼んだが。確かに、超悪魔的と呼ばれてしかるべきである。なぜならば、悪魔性の形而上学的結晶化であるからである。旧約聖書は確かにそうと言えるが、新約はほんとうにそうなのか。キリストは愛を説くが、自我悪において愛を説くとはどういうことなのだろうか。独善的な自我に愛を説くとは、その独善的自我が他者に積極的に干渉するということになるだろう。独善的自我における隣人愛とは、独善・自己正当化的に、他者へ干渉し、独善的自我を押し付ける暴力である。これが、キリスト教のミッション・宣教・伝道性に帰結したと言えよう。(また、十字軍という略奪に帰結したと言えよう。そして、現代、「イラク戦争」に帰結し、また、郵政民営化に帰結しているのである。超悪魔の帝国である。)ということで、キリスト教は、旧約宗教の究極的な帰結・完成である。世界平和のためには、絶対的に、ポスト・ユダヤキリスト教とならなくてはならない。不連続的差異論は、新しい多神教、不連続的差異的多神教を示唆している。もっとも、これは、理知的な宗教であり、叡智そのものである。そう、今や、正しく、逆ハルマゲドンの時である。似非天使=悪魔を退治しないといけない。