差異と個1:個の経験は消滅するのか:不連続的差異論的永劫回帰

人間・個の差異について

不連続的差異が、メディア界において連結して、構造的多様体が生起して、現象化する。しかし、ここで現象化した個体は、擬制の連続体に過ぎない。物自体としては、差異が、不連続的差異がいわば鬱勃と蠢いているのである(ディオニュソス性:セザンヌゴッホピカソの絵画はこれを表現しているだろう)。つまり、現象個体は、見かけ(アポロ性)とは異なり、不連続的差異の嵐・「カオス」を内包内在しているのである。そして、私は、この内在されている差異をもつ個を特異性と呼んでいるのである。では、この視点から見ると、人間個体の思考・身体・精神・意識・無意識・感情・気持ち・思い・経験・体験等は何なのだろうか。つまり、「わたし」とは、不連続的差異論から見たら、何であろうか。「わたし」の経験・体験(総体性)は、連続体に刻印されるだろう。しかし、連続体の真相は、不連続的差異の連結態である。ということは、差異・強度のメディア界に経験が刻印・「記載」されるはずである。身体感覚/知覚・認識を差異/強度と見るなら、確かにそう言えるのである。だから、「わたし」の経験・体験は、メディア界の差異/強度に記録されている。つまり、メディア界の「情報」となっている。差異・強度情報と言っていいだろう。これはどういうことなのだろうか。この差異・強度情報とは何であるのかである。これは、量子状態ではないのか。つまり、「わたし」・個の経験・体験は、メディア界において量子状態となっているだろう。粒子/波動の量子状態として「わたし」・個の経験・体験は存するだろう。メディア界的量子状態としての「わたし」である。そう、これが、伝統的には霊魂、霊、魂と呼ばれたものだろう。そう、メディア界が情報貯蔵庫である(比較:阿頼耶識、カルマ)。簡潔にするため、「わたし」・個の情報を個情報と呼ぼう。メディア界において、この個情報はいわば永遠である。そう、サーバーにある情報のようなものである。(ここで、SF作家のフィリップ・K・ディックの『ヴァリス』の根源的情報体を想起してもいい。)そして、この個情報は、イデア界の「光」、「善の太陽」を見る・触れるのだ。そして、自己の個情報の至らなさを知るのだ。そして、このイデア界の「光」を知った個情報は、新たに出生する人間の身体に入るのだ。というか、イデアの光に触れた個情報は、イデア界の差異の回転の「時」に応じて、新たに出生するのだ。「輪廻転生」である。そう、魂の不滅のプラトンの説である。そう宗教は正しかったのだ。閻魔大王はいるのである。自分の人生の口座が、監査されるのである。みんな見通しである。悪事は裁かれるのである。ただし、最後の審判は虚構である。審判は永劫回帰するのである。いっさいの宗教は、同一の真実界を多様に表象しているのである。D.H.ロレンス折口信夫が、20世紀において天才的に表現したように、死者は身体として、心身として、現象界に復活するのである。天使として、霊として復活するのではない。ポスト・グノーシス主義。そう、イデア界が天国・浄土で、メディア界がリンボ・煉獄・地獄で、現象界は現世・この世だ。そう、オカルティストの世界観もだいだい正しいということになるが、根本的に誤っているのは、霊を中心に考えていることだ。いわゆる、霊主体従である。霊肉二元論は誤りである。「霊」は、形相であり、エネルゲイアであり、量子的個情報である。差異・強度的存在と見ないといけない。心身的情報体である。
 とまれ、最後に、この個情報永劫回帰観から見ると、2005年の地球世界はどう見えるのか。明らかの無明・誤謬・狂気錯誤錯乱・暴力・悪魔悪霊・絶滅寸前の世界である。結局、西欧近代の知が現象界に限定されていることにすべてのカオスの原因があるだろう。換言すれば、差異を忘却して、連続的同一性の言語・知・自我で考えていることに拠る。聖書とキリスト教は異なる。聖書は豊饒である。キリスト教三位一体とは、教会の教義に過ぎない。父(ヤハウェ)と子(キリスト)と聖霊は不連続である。三位不一体である。神人イエス・キリストとは、差異が、おそらくイデア界(「父」)が反映した人間である。このイデア界・「善の太陽」をイエス・キリストは説いているのだ。そう、キリストが神というのは、ある意味で誇張である。イエス・キリストは、イデア界・「善の太陽」のヴィジョン・幻視を体現した人物であろう。そう、幻視家、ヴィジョナリであろう。詩人である。詩人イエス・キリストである。そう言えば、小説家オスカー・ワイルドが『獄中記』De Profundisで、詩人としてイエスを説いていた。