フォークロア論と特異性差異イデアの永遠回帰

フォークロア民俗学)について


地霊というものが、不連続的差異論によって証明されたが、ならば、魑魅魍魎はどう説明されるだろうか。ものの怪である。これも簡単な応用問題だ。土地が、差異/強度=身体/精神ならば、そこの自然、森林、川、山、湖沼、動植物等も、差異/強度=身体/精神であり、これが、メディア界を媒介として、人間の差異/強度=身体/精神と交感・交通するのである。これが物の怪との交信である(記紀神話の世界、民話の世界、宮沢賢治の世界)。
 ならば、死者との「交霊」とは何か。個体の差異/強度=身体/精神とは、いわば不滅である。だから、ある意味で死霊はいるのである。しかし、思うに、それは残像であろう。かつての生者の残像としての死霊であり、もはや「実体」としては、存しないだろう。丁寧に考えよう。人間の差異/強度があり、それが現象化(出生)する。しかし、人間差異/強度は回転し続けて、現象としての、物質としての人間身体は、衰退する。(しかし、実体験や思考は、差異/強度を変容させるだろう。すなわち、それらは、強度である精神を教育し、また差異である身体に影響して)しかし、個体の差異/強度は現象界での経験による教育を記録するのではないか。すなわち、差異とは知即存在であり、強度とはそれらを連結する精神・理性である。だから、現象界での経験は、個体の差異/強度に刻印されると考えられる。そして、個体の差異/強度のもつ有時空間性(サイクル・人生)が終了して、個体の差異/強度は、イデア界に帰還する。それはイデア界の差異/境界虚度へと回帰する。それがいわばあの世である。冥界である。浄土天国である。地獄=天国である。妣の国である。隠り世である。では、イデア界に帰還した個体の差異/境界虚度はどうなるのか。差異がばらばらになるのだろうか。もっとも、人間の個体の差異とは何であるかである。それは、差異と差異の境界虚度のいわば連結である。すなわち、人間の個体を形成する差異と差異との境界連結があるということである。つまり人間の差異連結性がイデア界にあるということである。では、問題はこれが、単に類概念なのであろうかということである。ならば、原人のアダム・カドモンである。しかし、そうならば、特異性はどこから生じるのであろうか。私は普遍性=特異性と考えているが、アダム・カドモンはこの考えに合致するだろう。つまり、私という個体的特異性とは、アダム・カドモンに基づくということとなる。死ぬと、イデア界のアダム・カドモンに帰還するということとなる。しかし、どうも違う。もし、私の差異/強度がイデア界に帰還して、アダム・カドモンになるならば、特異性としての差異/強度はどうなるのだろうか。特異性としての差異/強度があるのではないか。私はイデア界の差異の特異性について述べた。ということは、特異性としての差異である。そして、これが普遍的であるということである。ならば、イデア界は類概念ではなくて、特異性としての差異イデアがあるということである。ならば、人間の差異とは何か。確かに類概念としての人間の差異はあるだろう。プラトンが言う原型としてのイデアである。これは認めよう。馬のイデア。花のイデア。型である。パターンである。類別・種別性である。構造性である。これはいい。これは、差異の連続的同一化の過程で形成されるものだろう。すなわち、差異=微分の連続化において形成されるのである。では、それ以前の特異性の差異においてはどうなのかである。おそらく、差異/強度そして、差異/境界虚度の差異/特異性があるのであり、この特異的差異性が「私」のほんとうのイデアであろう。特異性としての差異イデアである。これが、メディア界を介して、連続化して現象化するということだろう。そして、この連続化のサイクルが終了すると、差異はイデア界の特異性としての差異イデアへと戻るのだろう。その特異性の差異イデア=「私」は、現象界の経験の「知」を記録しているのであろう。ならば、一種輪廻転生があることとなるだろう。特異性の差異イデアが虚度回転して、らせん回転するのだ。「わたし」は「わたし」であり、永遠回帰するのだ。ただ、特異性だけが、太陽系、銀河系、宇宙全体とともに、永遠回帰するのだ。