理性、知性、欲望、想像力、身体性、その他

[叡智学] 理性、知性、欲望、想像力、身体性、その他

 理性は、近現代において攻撃されてきた。しかし、これを否定すると、知性、欲望、身体性等が残るだけとなるだろう。では、理性とは何か。定義は一つではないだろう。私の考える理性とは、共感性を内在させた論理性である。他のものに言及すると、知性とは、対象のもつ客観性に即した論理性である。想像力は、共感性によって、喚起される内的なイメージ力である。身体性とは、感情、生、精神性の基盤としての身体である。欲望は、感覚・感情的な欲求である。自我とは、言語観念と欲望とが結びついた個体性であり、発生的には、生得的には、反動的である。つまり、未分化的全体的概念情動に対する反動として生じる。不連続的差異論から見ると、未分化的全体的概念情動とは、メディア界を指しているだろう。(ラカン精神分析では、想像界に当るだろうが、私は精神分析を哲学智を内包した知性とみるのであるが、それは、家族的枠組みの制約があり、それを批判する。)メディア界を否定するようにして、自我が生じるのである。そして、これは、暴力的である。共感性を排除している。
 結局、問題は、自我とメディア界の能動的結合である。不連続的差異論は、これを可能にする。つまり、自我とメディア界の分裂を解決するのである。つまり、自然科学、社会科学、人文科学を綜合するのである。理知と文知が結合して、理文智となる。近代主義、資本主義は、自我中心であり、暴力的であった。不連続的差異論から、イデア界を想定して、メディア界と自我とを結合することができる。しかし、このとき、自我は没落して、特異性の個体となるだろう。