イデアの回転と超越性、その他

[叡智学] イデアの回転と超越性:存在論性と超越性

 問題は、不連続的差異=イデアが90度=1/4回転して、連続化することの意味と超越性との関係についてである。先に、それらがイデア論的に結合することを述べたが、もう少し精緻に見よう。思うに、純粋な90度回転は、多神教となるように思う。日本の八百万の神々とは、そのようなものであるが、しかし、ギリシア神話多神教とは異なり、プラトン的コーラ、イデア界性を帯びていると思う。次に、超越性であるが、それは、イデアが90度=1/4回転して生じた多神教的世界を否定・棄却するものである。多神教イデアの回転による受動的世界=自然(じねん:自ずからなる)ならば、超越性(超越神性)は、能動性、積極性、意志の世界である。それは、否定的意志、反動的暴力の世界である。これは、多神教的感情、共感性、肯定的感情を否定・棄却することによって、発動する。つまり、多神教を発現した純粋強度を反動化して、超越性へと飛躍するのである。つまり、超越性には基礎にルサンチマンがあり、そのため、暴力衝動をもつのである(暴力の誕生)。
 以上、存在論性と超越性の区別がより明快になったろう。ここで、特異性について言うと、強度や強度反動が特異性の原基であろう。(あるいは、イデア自体が原基であろう。)だから、多神教的強度(受動強度)と超越的反動強度(能動強度)がある。そして、近代西欧においては、近代西洋文化においては、後者が主体となり、前者はほぼ否定・棄却されている(か、あるいは従属している)。
 ところで、不連続的差異と超越性との関係は何だろうか。あるいは、不連続的差異と超越的言語との関係である。(これに対しては、以前行った、父権的言語と母権的言語との区別を想起すべきである。超越的言語とは、前者である。)たとえば、「車」であるが、これは、「車」の「イデア」をもつ。しかし、これは、言語イデアである。それに対して、イデアとしてのイデアがある。あるいは、イデア界のイデアがある。だから、超越的言語とは、イデア界のイデアの「影」であると言えよう。イデア界の「車」があるのである。ということで、超越性と存在論性(多神教性、母権的言語)を能動・肯定的に連結することで、超越的言語の「イデア」は、イデア界のイデアとなるであろう。
 最後に、ニーチェの強度であるが、それは、イデア界の強度が直にニーチェに存しているということであるし、また同時に、超越性の反動強度があるように思う。両極端がニーチェにおいて出会っているようだ。だから、ニーチェこそ、ポスト・キリスト教文化の出発点・原点・端緒である。正に、アンチ・キリストである。だから、プラトン→キリスト→カント→ニーチェフロイトハイデガーポスト構造主義→不連続的差異論である。そして、ガタリドゥルーズ哲学とデリダ哲学は、プラトンニーチェフロイトハイデガーとを連結する試みであろう。
 とまれ、不連続的差異論は、強度と差異とをイデア/特異性によて統一したと言えるだろう。「車」とは、イデア=強度をもつのである。ただ、多様なイデア=強度があるのである。ただし、人間において、強度は綜合的であり、もっとも強力であり、反動的にはもっとも暴力的である。


[叡智学] 近代的自我はなぜ、唯我論・独我論的になるのか

不連続的差異論から見ると、近代的自我は超越的自我であり、イデア界の反動であるから、絶対性、独善性、独断性、欺瞞性等をもつのである。いわば、無謬論的になるのである。唯我独尊的である。これは、傲岸不遜であり、専断・暴力・狂気的である。
 ところで、このような自我は、他者を当然攻撃するのであるが、そのとき、自我を他者に投影するようだ。ユング心理学でいえば、自分のシャドウ・影を投影するのである。(ブッシュが自我のシャドウ・影をイラクに投影しているとも言えよう。)では、なぜ、このような投影が生じるのだろうか。シャドウ・影が、他者に投影される力学が想定できるだろう。あるいは、超越的自我に棄却されたメディア界、共感性が、他者に投影される。つまり、こういうことではないだろうか。自己のメディア界、共感性とは、超越的自我の暴虐性、暴力性を感知・認識しいているのではないだろうか。つまり、自己において、少なくとも二人の別人格が存するということではないか。一人は、自我の意識的人格である、一人は、否定・棄却されたメディア界的、共感的、潜在意識的人格である。後者がいわば、良心とでもいうものであり、倫理のベースとなるだろう。これはどういうことなのだろうか。つまり、前者は、後者の叡智を他者に投影させて、他者に攻撃的になる。いわば、逆ギレのような事態である。では、この投影の意味は何か。前者は独善的であるから、他者を見たとき、反動によって、自己の内部の後者を他者に映すのであろう。つまり、否定・棄却しているものを、他者へと挿入、注入、投入するのである。結局、この投影とは、自己の真実ではあるが。
 この超越的自我の二重性については、D.H.ロレンスが『古典アメリカ文学研究』(講談社文芸文庫)における犀利な文学批評にいて具体的に展開されている。たとえば、メルヴィルの『白鯨』におけるエイハブ船長の白鯨への偏執・妄執・パラノイア的攻撃性と白鯨のもつイデア界/メディア界性とが見事に説かれている。前者をブッシュ、後者をイラクとすればいいのである。どうして、白鯨を偏執的に攻撃するのか。それは、超越的自我の否定・棄却(精神分析では、抑圧/排除)性によるだろう。それは、否定・棄却したイデア界/メディア界を認めるわけにはいかないのだ。抹殺しなくてはならないのだ。ここで、ジョセフ・コンラッドの驚くべき中編小説『闇の奥』のクルツを想起する。ノートにアフリカの原住民をすべからく抹殺すべしと書いてあった。これは、オリエンタリズムでもある。狂気のキリスト教文明である。脱/ポスト・キリスト教である。


[備忘録][叡智学][社会][メディア] 不連続的差異論と情報社会

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