不連続的差異論とデリダ哲学:論理的/郵便的、etc

[叡智学] 不連続的差異論とデリダ哲学:論理的/郵便的

存在論的 郵便的ージャック・デリダについて』(東浩紀著 新潮社 1998年)は、不連続的差異論に対する意義深い内容をもっているようだ。以前、一通り読んで、強く感銘を受けて、郵便的という語をよくわからずに、しばらく使用した。今、余裕がないので、充分に検討はできないが、デリダ(/東)哲学は、不連続的な差異性、不連続的差異の複数性の点で、不連続的差異論と共通点をもっていると思える。しかしながら、フロイト精神分析に対する考え方で異なるようである。前者は肯定的である。後者は否定的というか批判的である。私見では、フロイト精神分析では、個体中心となり、客体性の考察ができなくなると思う。不連続的差異論は、個体だけでなく、客体のあり方をも、含んでいる。つまり、総体的である。全体包摂的である。綜合論である。推測では、東浩紀氏は、デリダ哲学の論理的/郵便的の二重性を分離選択して、理論的にはより整合的になったかもしれないが、デリダ哲学の豊饒な可能性を狭めたり、閉ざしたりしているのではないだろうか。とまれ、上書から引用しよう。

「・・・ 私たちは論理的/郵便的という脱構築の二重性(接木性)を、ハイデガーフロイトの「起こらなかった出会い」に重ね合わせた。その両者は、解釈学的循環=自己言及性の深淵に他者性(存在の声)を見出すタイプと、コミュニケーション=欲望の流れの場で生じるデッド・ストックに他者性(反復脅迫)を見出すタイプの、他者性についての二つの異なった思考により規整されている。言い換えれば、デリダのテクストにおいては、カント=ハイデガー的超越論性における「超 trans-」と、フロイト超自我における「超uber-」〔uはuのウムラウトである〕という二つの異なったhyper-、経験論的自我を超えるための二つの異なった契機がつねに葛藤していると考えられる。・・・」pp. 219〜220

 引用の二重の「超ー」であるが、不連続的差異論から見るならば、イデア界のもつ「超性」によると見ることができるだろう。このカント=ハイデガー的「超性」とは、メディア界の回転性を指示するだろう。そして、フロイト超自我とは、現象界的「超性」を指示しよう。つまり、反動的「超性」である。あるいは、超越神的「超性」である。また、先に私は、父権制/資本主義の積極・能動性を肯定した。だから、不連続的差異論は、二重の「超性」を能動・積極的に連結していると見ることができるだろう。(だから、東浩紀氏ではなく、デリダに近い。)この能動的連結とは、フロイト超自我の反動暴力性を、イデア界的共存共感肯定性によって変容させて、能動化(スピノザ化)している。つまり、それは、もはや超自我・超越性ではなくて、イデア界的「知」をもつカント=ハイデガー的「超性」であろう。つまり、プラトン的「超性」となるのである。これは何を意味するのかというと、カント=ハイデガー的「超性」をプラトン的「超性」に真に転化したということでもあろう。つまり、ここでは、二つのことが同時に為されているのである。フロイト/超越神的「超性」=超越性とカント/ハイデガー的「超性」=内在性の両者が、プラトン的「超性」=イデア界性へと、統合化されているのである。だから、思うに、不連続的差異論とは、デリダ哲学の二元論性(存在論的/郵便的)という折衷性を真に統合整合化した理論であるということができるのではないだろうか。だから、やはり、不連続的差異論は、ポスト・ポストモダニズム、ポスト・ポスト構造主義であり、いわば、不連続差異プラトニズムとでも呼べるものである。ガタリドゥルーズ哲学とデリダ哲学との結合・統合とも言えるのではないだろうか。あるいは、プラトン哲学の差異論的完成を意味しているのではないだろうか。不連続的差異=イデアの理論・実践的哲学である。

[文化][社会] 『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット著

この「大衆」という概念を用いると、私が嫌悪を感じているものが明快になるようだ。大衆資本主義、大衆民主主義、大衆人。とまれ、かつて何度も読もうとして挫折した本著を読もう。

p.s. 大衆でなく、小衆。大衆は国家と結びつく。小衆は、マイノリティと結びつく。小衆の連結があるだろう。小衆の集合、共存体としての世界。脱国家。また、マスコミ(大コミ)ではなく、ミニコミ(小コミ)。ミニコミとしてのブログ、HP他。小衆連帯はあるだろう。また、小衆社会。

p.p.s. 地域通貨は、森野栄一氏によると、義の通貨である。一般の貨幣が利の通貨であるのに対して。果たして、そのような二元論に裁断していいのだろうか。利も義も本来一如ではないか。イスラーム経済はそのように考えているだろう。とまれ、小衆経済、小衆通貨、小衆民主主義を考えたい。(盆栽経済、盆栽通貨、盆栽民主主義)

3p.s. 小衆共創共存体、小衆共創存体、小衆差異相補体(小衆相補体)。


[叡智学] 言語と芸術:言語、想像力、潜在意識、芸術

私見では、身体性、身体想像力、潜在意識が、芸術を生む基盤・母胎である。では、それと言語はどのように関わるか。思うに、言語はその突端である。チップ、先頭、キャップである。そして、この先端が、批評したり、論理化したり、構想したり、考察したりするのである。だから、言語は深く、芸術と関係しているし、逆もそうである。言語と芸術の相補性があるだろう。今日の日本語の衰えとは、芸術の衰えと関係しよう。音楽の悲惨、文学の悲惨、美術の悲惨、等々。これは、基盤の身体性、身体想像力、潜在意識の衰えでもある。つまり、近代自我主義/資本主義の反動暴力によって、それらが棄却、否定され、その強度が枯渇しているのだ。また、倫理も、この基盤から発するだろう。学力もそうだろう。一切合切の源泉であろう。つまり、イデア界の強度の場所である。

p.s. 資本capitalは突端の意味をもつ。


[叡智学] 理性、知性、欲望、想像力、身体性、その他

 理性は、近現代において攻撃されてきた。しかし、これを否定すると、知性、欲望、身体性等が残るだけとなるだろう。では、理性とは何か。定義は一つではないだろう。私の考える理性とは、共感性を内在させた論理性である。他のものに言及すると、知性とは、対象のもつ客観性に即した論理性である。想像力は、共感性によって、喚起される内的なイメージ力である。身体性とは、感情、生、精神性の基盤としての身体である。欲望は、感覚・感情的な欲求である。自我とは、言語観念と欲望とが結びついた個体性であり、発生的には、生得的には、反動的である。つまり、未分化的全体的概念情動に対する反動として生じる。不連続的差異論から見ると、未分化的全体的概念情動とは、メディア界を指しているだろう。(ラカン精神分析では、想像界に当るだろうが、私は精神分析を哲学智を内包した知性とみるのであるが、それは、家族的枠組みの制約があり、それを批判する。)メディア界を否定するようにして、自我が生じるのである。そして、これは、暴力的である。共感性を排除している。
 結局、問題は、自我とメディア界の能動的結合である。不連続的差異論は、これを可能にする。つまり、自我とメディア界の分裂を解決するのである。つまり、自然科学、社会科学、人文科学を綜合するのである。理知と文知が結合して、理文智となる。近代主義、資本主義は、自我中心であり、暴力的であった。不連続的差異論から、イデア界を想定して、メディア界と自我とを結合することができる。しかし、このとき、自我は没落して、特異性の個体となるだろう。

p.s. 自我暴力であるが、これは、共感性を否定するので、倫理性が欠落する。魂や心や感受性の欠落であり、反社会的である。


[宗教] 『コーランを読む』井筒俊彦著 岩波書店

「・・・。コーランの場合には、神の本体というものを、もし仮に見ることができるとすれば、それは美そのものなのです。やさしさと愛と美と静けさそのものが神の本体であって、それが第二次的に、神のジャマールのしるしを認めない人々に対してジャラール的な側面を示すということになる。このことは、イスラームにおける信仰概念を決定的に規定する非常に重要な考え方です。」p. 170

アッラーという名前の以前(強調のルビ)は絶対不可知の神、取りつく島もない神です。その絶対不可知の神が、アッラーという自分の名前を明かす、それによって神と人との間にコミュニケーションの道ができる。神の自己顕現の始まりです。自己顕現はさらに続いて、次の段階でアッラーという名が二つの反対の方向に分岐します。そして、この二つの方向に展開しつつ、神は自らの九十九の名を明かすのです。イスラームでは九十九の神の名を立てるということは、前に申しました。この九十九の神名は二つの系統に分かれる。一方はジャマール(jamal)、他方をジャラール(jalal) といいます。ちょっと申しそえておきますが、ジャマール、ジャラールというのは神の名ではありません。名前の系統、つまり神の自己顕現の相対立する二つの方向です。ジャマール系統の名前とジャラール系統の名前と、合わせて九十九。但し、「アッラー」という名はそのいずれの系統にも属さない。両方を一つに集約する綜合的な名前なのです。
 ジャマールはアラビア語で、「美」「美しさ」ということ、ジャラールは「威厳」とか「尊厳」とか「峻厳」とかいう意味です。神の名前この二系統に分かれるのです。「美しさ」「やさしさ」「愛」「慈悲」など、親しみやすい性質を表わすのがジャマール系の名。これに反して、「恐ろしさ」とか「怒り」とか「復讐」とか、神の暗い側面を表わすのがジャラール系の名。・・・」pp.83~84

p.s. 以上の考え方は深い。私見では、やはり、イスラーム教は、母権・女神・多神教的である。アジア・東洋的である。ユダヤ教キリスト教とは根本的に違うと思う。

p.p.s. 空海両界曼荼羅胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅の統一である)を想起する。

3p.s. アッラーと名のる前の「絶対不可知の神」は超越神とイコールではないだろう。内在していても、絶対不可知であることはできるだろう。簡単に言えば、具体的なあるもの、たとえば、一個のケーキを究め尽くすことは不可能だろう。その色、形、味の絶対的な知、分子の絶対的な知、原子のそれ、素粒子のそれ、・・・は不可能であろう。


[宗教] 『ユダヤ教の誕生 「一神教」成立の謎』

荒井章三著 講談社選書メチエ114


[社会][文化] 日本人の再生へ向けて:人間再生機構より

 日本人は「魂」(アニメの語源は、アニマ=魂である)を失ってしまった。政治・経済的に言えば、アメリカの奴隷になったのである。それは置いておこう。亡魂の原因は多様である。直感では、江戸/明治の管理体制が日本人の無意識に作用しているのが原因である。個に生きる、特異性に生きるとは、困難なことである。しかし、それを捨てれば、奴隷である。体制に合わせて生きる要領のいい人間である。(森鴎外の『阿部一族』はそのような人間・柄本又七郎を描いている。西欧の個人主義の優れていることは、ある意味で、特異性を評価するシステムをもっていることだろう。日本人で優秀なものは、才能流出である。このような管理体制は江戸時代より、明治以降や戦後以降に強いだろう。)とりわけ、戦後はアメリカ主義に身も心も染まってしまった。アメリカの家畜である。
 とまれ、家畜の生き方とは、『カラマゾフの兄弟』の大審問官の説明するものである。しかし、それは、「存在忘却」である。本源のイデア界があるのである。ここをベースにすれば、「魂」が目覚めるのである。(p.s. というよりは、孤独になったとき、「魂」が目覚め、イデア界が芽吹くのだろう。)

p.s. 私が憤っているのは、日本人への歯がゆさ、もどかしさゆえである。オルテガの『大衆の反逆』他を読んでみよう。


[社会] 性犯罪と共創共生主義

性犯罪は確かに憎むべきものである。しかし、根因を考えなくてはいけない。私見では、性犯罪者は、母親の愛情が希薄ないし皆無である。このような母親や家庭を作るのは、社会や教育である。資本主義的社会・教育である。このような状況、社会的文脈を考えずに、性犯罪者を差別するのは、誤りである。これはオウム真理教事件にもあてはまることであるが、社会自体が病んでいるのである。このような背景を無視して、性犯罪者等を差別するのは、誤りである。性犯罪者の更生措置の改善が必要だと思うし、社会自体が猛反省しないといけない。差異共創共生主義社会。


[社会] 日本のイニシアティブ

もし、地球全体の地震情報を管理する体制を日本がもっていたら、今度の大地震による津波に対する警報を出していただろう。日本人は怠けだ。「アメ公」の超奴隷である。反省しろ!・・・・・無限大。