新概念の誕生=創造:氣精心Qi-Spirit-Heart(QSH:救世主と読む?)

リンクは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12041458646.html


新概念の誕生=創造:氣精心Qi-Spirit-Heart(QSH:救世主と読む?)


テーマ:氣精心Qi-Spirit-Heart


直近で、以下の記事を記した。
唯物論超克を説いている。
初め、精心・氣的生命有機体哲理技学であったが、氣と精心を結合して、氣精心というタームを造語した。
 なお、精心は、精神から来ているが、「神」より、直接は「ココロ」に関わるので、そう命名した。
 だから、二つの創造があるのである。精神でなく、精心、そして、精心・氣という二元性ではなく、氣精心という一元性にしたのである。


追記:氣精心に体をつけた方がベターかも。すなわち、氣精心体Qi-Spirit-Heart-Body(QSHB)である。救世主菩薩と読むのか?


悪vs善:唯物科学・技術VS氣精心的生命有機体哲理技学


テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ


闇本(あんぽん:丹をつけると、アンポンタン【あんぽんたん - 語源由来辞典】 である:別名日本)は、噴く威笞に拠る大悲劇の様相である。また単に放射能汚染だけでなく、食品添加物、農薬、工場廃水、等々による超大汚染物質列島になっている。
 今、飯山一郎「大明神」が、乳酸菌(豆乳ヨーグルト)、あらびき茶、放射能ゼロ空間など、放射能大洪水のサバイバルの叡知技学を無料で公開・伝授している。
飯山一郎のLittleHP - GRNBA.com
 日本の超大悲劇は、結局、薬局、マツキヨ、唯物科学・技術、近代科学と国家資本主義に拠るものである。
 日本人は生命について、精心(ココロ)について、あまりに疎かにしてしまい、貴重な超世界遺産級の日本大地風土を荒廃させ、破壊してきたのである。
 とまれ、唯物論からの脱却、これが、根本である。
 生命と物質とはまったく異なること、そして、生命は氣に拠ること、また、氣と精心(ココロ)は連関していること、すべて、やり直しである。
 宇宙樹心母権森人類として、日本人は生まれ変わる、「千載一隅」のラスト・チャンスである。


参考:

* 躰を創る 16 (06/20)

東洋医学という医療の枠組みからイメージするものは、鍼灸指圧などの物理療法と生薬医療の漢方薬という二つの顔であることは言うまでもありません。

また医療というよりも養生というカテゴリーに拡大するとそこには様々な長生法である食養や、導引などのエクササイズや、気功や按摩などいわゆる東洋式の健康法のたぐいが含まれてきます。

ザックリとまとめて東洋式養生法というカテゴリーを創れば、上記の鍼灸指圧や漢方薬部門からあらゆる養生法のすべてが包含されてしまうと言えます。

こうした中国を発祥とする医術養生体系は専門的には中医学体系と呼ばれております。

ではこの中医学の由来はどこにあるのか?というと、これは漢民族が中国を支配した今から2300年前頃に成立したと言われており、つまりは中医学とは漢民族に伝承されていた漢医学であるとも囁かれます。


躰を創る 15 (06/19)

「わたしたちは近代文明、科学技術文明、資本主義社会などと言われる位相システムで否応なく生きていかねばならないヒトという存在です。

こうした反自然な文明システムはヒトと自然とのつながりを分断する弊害があることは論を待ちません。

また西欧に発祥した近代科学思想はヒトの心と身体を二つに分けることで、心理学と身体学を分離してしまったとも言われております。

心の問題は心療内科や精神科、身体の問題は内科や外科と、このように分類するのが西欧式の医学体系です。

こうした近代の分析分断思考をベースとした自然支配システムの終局的な局面として今や3.11原発事故が顕在化していることも周知です。



この問題が山積した近代システムを、自然や生命と共に生きる新しいサスティナブルな共生パラダイムに組みかえることは急務です。」

養生法の探求

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12041438565.html

二つのユダヤ人:シオニストVS隠然ユダヤ人:戦争資本主義VS平和資本

画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12038207532.html


二つのユダヤ人:シオニストVS隠然ユダヤ人:戦争資本主義VS平和資本主義


テーマ:賤民資本主義と共同体的資本主義


以下の田中宇(さかい)氏の記事は啓蒙的である。
 私は以前、ユダや資本が二つに分れているのではないかと述べたが、その検証ともなる記事である。
 隠然ユダヤ人(ロスチャイルド他)は平和資本主義を目指し、シオニストらの戦争資本主義(戦争屋)を排除する方向に向ったのである。それが、今年初頭の『エコノミスト』の表紙に表現されていると言えよう。

安倍が…

 やはり、私のユダや資本の二分化仮説は正しかったのである。
 そう、旧約聖書かみると、二つの神がいる。ヤハウェとエローヒーム(神の複数形)である。
 これは、父権神と母権神である。
 つまり、ユダヤ民族は父権民族と母権民族がいるのである。
そして、前者がシオニストとなり、戦争屋となったのであり、そして、今や、母権民族の隠然ユダヤ人が台頭し、世界を共同体平和資本主義へと転換させていると言えよう。
 そう、これは私が提唱している新母権主義の強力な発動である。
 では、翻って、阿米背犬やそれを支配する戦争屋の動かす日本をみたとき、何が見えるだろうか。
 戦争屋のピエロの阿米PMは、日中戦争を画策する。そして噴く威笞を、悪魔的に放置する。
 そう、戦争屋の悪魔の憑依した阿米背犬が見えるのである。
 とまれ、新母権主義に切り替わりつつある世界環境において、フクイチは地球破壊の様相である。放置できない。
 新母権勢力が、管理するはずである。 二階氏の動きはそれに連動するだろう。
 新母権隠然ユダヤ資本の力学によって、日本の政治力学が急激に転換すると思われる。
 そう、放射能汚染によっても急展開するだろう。
 日本企業が日本政府に反旗を翻せば、戦争屋政権は崩壊するだろう。
 とまれ、以下の記事はたいへん秀逸な必読記事である。超推薦である。



イスラエル支配を脱したい欧州
2015年6月12日  田中 宇


ユダヤ人差別」と戦うふりをして欧州を支配し続けるイスラエル右派との戦いは、本質的に「ユダヤ人と非ユダヤ人の戦い」でなく「親イスラエルユダヤ人と反イスラエルユダヤ人の戦い(百年戦争の一環)」である。産業革命フランス革命以来(つまり近現代の始まり以来)欧州の政財界はユダヤ系の力が強い。彼らは自分たちの素性を隠し、隠然した支配を好む「隠れユダヤ人エリート層」(ロスチャイルド家など)である。そこに19世紀末から殴り込みをかけて「お前らユダヤ人ならカムアウトしてイスラエルを支持しろ」と恫喝してきたのがシオニストイスラエル建国主義者、昨今のイスラエル右派)のユダヤ人勢力だった。(イスラエルロスチャイルド百年戦争

http://tanakanews.com/150612israel.htm

氣が形而上学的存在であると同時に、量子的エネルギーをもつこと:MP

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http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12038096605.html


氣が形而上学的存在であると同時に、量子的エネルギーをもつこと:MP次元転換、虚軸から実軸へ


テーマ:唯物科学から物質包摂の氣サイエンスへ


以下は明敏に氣の力学を説明している。
氣の形而上学性と形而下性であるが、
この相関の力学は非常に微妙である。
 陰陽哲理学はその点、10年以上に渡って、探求してきた。
問題は、虚軸と実軸は不連続であることである。
ここがポイントなのである。
いわば、虚軸の影像が実軸の量子であり、物質なのである。
 何度も検討したが、今は余裕がないので、説明できない。


追記:少し説明しよう。
虚軸に陰と陽の氣がある。それが、原点MP(メディア・ポイント)で陰陽結合と陽陰結合をする。
前者が本来の共振であり、生命的活動であるが、後者はより物質的な活動である。
しかし、もっとも、生命体には、両者が複合していると見られる。
 さて、氣⇒量子的生命的物質体(身体)であるが、量子的生命的物質体(身体)が氣へと転換することはない。ただし、後者の作用が氣の活動を向上させることは考えられる。
 とまれ、簡単に言えば、氣⇒量子であるが、量子⇒氣はないのである。
 氣は『養生法の探求』氏が述べるように、物理的発動をもっているのである。しかし、氣=物理的現象ではないのである。この点がいくら強調しても強調しすぎることはない。
 しかし、血液であるが、それは、氣が強く作用している生命物質であると思われる。
それは、GP陰陽哲理学では、原点MPに強く関わっていると考えられる。
 また、乳酸菌であるが、それは、植物と強く関係している。どうも、先に触れたように、植物と人間のミッシング・リンクのようである。
 思うに、植物は、陰陽共振による陰陽結合が強い。それに対して、動物は陽陰結合が強いと思う。人間も動物的な側面ではそうである。しかしながら、人間には植物的本質がある。
 結局、人間の植物的本質に作用するのが、乳酸菌ではないだろうか。
 つまり、やはり、乳酸菌も血液と同様に、MPに強く関係しそうである。
 そう、血液を含めて、MP生命物という概念を立てられるかもしれない。
今はここで留める。


         
            凸i陽
             |
             |
             自
             我
             |
             |
−1地_____MP・霊______+1天
(重力)         |          (光)
             |
             感
             性
             体
             |
             |
            凹i陰


      応用陰陽ガウス平面


(尚、MPはMedia Pointであり、原点・交点・次元転換点等であり、太極・太一、そして、霊である。)
 また、GP陰陽方程式がある。即ち、

凹i*凸i⇒±1

である。
 凹iは陰を、凸iは陽を表わし、両者、虚軸にあり、±1は実軸にある。
 *は陰陽極性力学を意味する。実際は乗法である。陰凹iが主導のときは+1,陽凸iが主導のときは、−1となる。
  ⇒は次元転換を意味する。氣エネルギーが現象エネルギーへと転換する事象を意味している。


躰を創る 11 (06/12)

「活きた凝り」には生命のもとである気が凝縮しており

気とは物理的な生物電磁気などの各種エネルギーであると同時に

生命情報としての心、意念、意識、愛の

この顕然秩序としての形而下学的な物理科学的要素と、

内臓秩序としての形而上学的な心理学的要素の、

エクスプリシットオーダーな明在系と

インプリシットオーダーな暗在系の、

二つながらの気フォースのありようが融合したまさに命そのものの姿が

「活きた凝り」には見られることが判明いたしました。

養生法の探求

他者をどうしたら感知、認知、認識できるのか

他者をどうしたら感知、認知、認識できるのか


テーマ:個と他者の相関:個⇔他者:脱集団主義


今は余裕がないので、詳論できないが、一言いおう。(追記:一言ではなかった。)
 近現代日本は父権自我が支配する。父権自我には他者認識はない。常に、自我中心に外界を認識するのであり、他者自体を捉えられないのである。
 カントが物自体は認識できないと述べたが、思うに、カントの認識とは、自我(父権自我)中心であるので、当然、物自体、つまり、他者自体を認識できないのである。
 共感性がなければ、他者は認知できない。
共感性は母権自我、陰的自我がもっているのである。
 では、父権自我においては、まったく他者は認識できないのであろうか。
 陰陽哲理学においては、理論的には、できない。
 視点を変えよう。
どうしたら、他者が自我精神に入ってくるのか。
 私の場合は、二十歳前後聴いた、シューベルトの歌曲である。確か、フィッシャーディスカウが歌っていた『冬の旅』がココロを私に喚起したのである。
 芸術がココロを喚起したのである。私の場合は音楽である。
 思うに、他者はココロと同じものである。
ココロを培うには、芸術や宗教や哲学が必要である。
 また、その他、自然体験が必要である。
そして、ココロは一日でできるものでなく、数十年、何十年も、あるいは、来世も必要である。
 でも、端的に、他者=ココロはどうして発露するのか。
 実は、ポイントは感情であろう。自己感情である。
自己感情とは、私だけのものであり、これは、いわば、個である。 
 合理主義は通じないのである。そう、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』がこれを露骨に描いている。
 しかし、自己感情主義では、コミュニケーションはできない。観念や概念、すなわち、言語が必要である。
 自己感情と言語は齟齬を来すのである。
 普通は、言語へと帰属し、自己感情は捨てられる。その結果、個や他者がなくなるのである。
 自己感情は身体と言ってもいい。そして、言語は精神である。
両者の分裂が近代の特徴である。
 私の場合、自己感情を陰とし、言語を陽として、陰陽において、均衡させることにより清算した。もっとも、陰と陽は不連続である。これが、ポイントである。
 結局、自己感情と言語の不連続、非連続性を認めることで、他者が生じると思えるのである。つまり、他者とは、実は自己感情なのである。
 個は他者なのである。
 普通の人は、自己感情と言語が癒着ないし未分化である。
 結局、自己感情と言語を分離することから、前者である他者性が生まれるように思えるのである。
 まだ、整理されていないが、今はここで留める。


追記:まだ、十分言い得てないが、自己感情の視点は重要である。言語観念ないし言語概念は、自我、父権自我と結びつき、それは、それで、自己完結的である。しかし、自己感情は言語では清算できないのである。
 言語は一般的なものであり、自己感情は個的なものだからである。
 個的なものに対処するには、個的なものに忠実であることが必要である。それは、苦である。
しかし、それを自我、言語、一般性から切り離すことで、自己解放の道が開けるのである。
 自我や言語から、自己感情を解放することから、自己感情は個となり、他者となるのである。
 それは、いわば、異文化なのである。自分の中の異邦人なのである。
 ということで、父権自我においても、他者を形成することは可能なのである。自己感情と自我を分離させることによって、他者形成が可能になるのである。
 しかし、父権自我は自己感情認識を排除する傾向にあるのである。
 つまり、父権自我と言語観念は結びつき、それによって、自己感情を排除、廃棄、排他するのである。
 そう、デカルト哲学の問題点もこの点にある。自我観念はあるが、自己感情は排除しているのである。陽哲学で、陰哲学がないのである。
 そう、さらに言えば、自己感情、陰哲学は、実は、自我超越性をもつのである。形而上学的なのである。超越的なのである。
 ここで氣が到来するのである。
 そう、宇宙的、コスモス的なのである。あるいは、神秘的なのである。霊的なのである。
 ここまで言えば、近現代文化の限界がよくわかるだろう。
 そう、自己感情とは、個=他者とは、形而上学的に宇宙的であり、物質的経験を超越してしまうのである。
 父権自我が他者を恐れる、排除するのは、ほとんど必然である。


追記2:さらに正確に言えば、自己感情を認識する必要がある。それには、シュタイナーのような精神哲理学(シュタイナーは精神科学と呼んでいるが、精神哲理学というべきである)が必要である。つまり、内省哲理学である。
 自己感情を観察する必要があるのである。内観である。
内観による自己感情吟味によって、自己精神が鍛練されるのである。
 今日の日本人にはまったく欠落しているものである。


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父権自我精神力学の解明:父権-陽自我は反動反射的暴力衝動をもち狂

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12030436489.html


父権自我精神力学の解明:父権-陽自我は反動反射的暴力衝動をもち狂気化する


テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合


先に以下を書いたが、まだ、直観的に不分明であるので、さらに検討したい。
 陰陽図を用いて考察していく。


        
         http://gaiax3.ti-da.net/e4240444.html

問題は先に述べた父権自我の否定衝動化、否定自動化(オートマティズム化)の力学である。
 父権自我又は陽自我の同一性力学はどのようなメカニズムなのだろうか。私は「陽の中の陰」に抑圧力学を見た、陰と陽との境界にココロがあると考えたのであり、そうすると、境界面に対して抑圧が作用しているということは可能性がある。
 どちらが正しいのだろうか。それとも、両方が正しいのだろうか。
 どうも、両方が作用していると観るのが正しいように思えてきた。
 つまり、陽の中の陰は当然、本体の陰と結びついている。
そして、陽の同一性力学を受けて、陰を抑圧するのである。
 この陰に対する抑圧であるが、それは、陽の中の陰を介するにせよ、結局は、陰本体にはたらくのである。
 それは、当然、ココロの境界面に対して、抑圧するということになるだろう。
 ということで、父権自我、陽自我の、陰に対する同一性的否定・抑圧は、陽の中の陰とココロの境界面の両方に作用するということになった。これを、現時点での、仮説とする。
 さて、父権自我、陽自我の否定衝動、否定自動化についてであるが、先に心理学者ユングの中年の危機の説を借りて、精神の成長の二段階を考えた。つまり、成人に成長する過程は陽主導であり、その後、中年へと推移するにかけて、精神の力学のいわばベクトルが逆転して、陰主導になると考えるのである。
 つまり、若いときは、陽自我、父権自我が主導するのであり、これは、能動性の形成という点では、重要な意義があるだろう。
 そう、動物性の形成とも言えよう。攻撃性とも言えよう。
 しかし、その後、精神力学のベクトルが交替して、いわば、陰ベクトルが主導化すると考えられるのである。
 陽から陰への転換である。陽エネルギー(陽の氣)から、陰エネルギー(陰の氣)への転換である。 
 陽主導のときは、陽の中の陰の要素が比較的少ないと考えられる。つまり、陰は強い抑圧の対象にはならないと考えられる。
 敵が弱小ならば、攻撃するに及ばないというような感じである。
 しかし、陽主導でありながら、次第に陰陽生成は、陰の力を強化すると考えられる。そして、ついには、陰主導へと転換するということになる。
 とまれ、陰の力の強化に対して、陽自我、父権自我は、否定、抑圧の力動を行使し出すと考えられるのである。
 そして、この抑圧力学において、反動として、精神暴力性が生まれると考えられる。抑圧以前においても、精神暴力はあるが、それは、反動ではない。能動である。あるいは、ストレートな能動性である。もちろん、攻撃性もあるが、反動のような反射性はないのである。つまり、反動は、主体的ではなく、他者反応で、受動である。
 さて、この反動反射性をもつに至った陽自我・父権自我であるが、この反動反射性こそが、暴力・攻撃的衝動性、発作性、自動性(オートマティズム)をもつと考えられる。
 このオートマティズムを父権自我・陽自我はコントロールできないだろう。
 何故なら、無意識の内に、反動反射的暴力衝動性が発現するからである。自然の一つの理なのである。
 しかし、これを剥き出しにすれば、ホッブズの万人に対する万人の戦争状態になるのである。
 ここで、仁倫、叡知、文化の問題が出てくるのである。
 人類は、父権化する以前の母権制において、陰陽調和の文化をもっていたと思われる。それは、男性がもつ攻撃性を鎮める叡知的システムであったと考えられる。
 しかし、父権制が形成されると、攻撃・暴力性が剥き出しになってくる。しかし、そのとき、社会統制のための何らかのルールが形成されたと言えよう。法律であり、共同体の掟、宗教等である。
 しかしながら、近代になると物質主義が中心化して、父権制を統御する文化システムが崩壊する。
 この精神統御システムの崩壊において、上記の父権自我・陽自我の攻撃・暴力的衝動・発作が生まれるのである。
 闇であり、魔であり、狂であり、である。闇・魔・狂である。
 近代は陽文化であり、陰文化を喪失している。(本当は、陰文化があるのであるが、陽文化に圧倒されている。陽文化主流であり、陰文化は傍流であるが、しかしながら、後者に未来があるのである。)
 陰文化が陽文化、つまり、父権自我、陽自我をコントロールする叡知をもつのであるが、それが、マイナーであるために、父権自我、陽自我はいわば、野放し、野性、放縦状態なのである。
 言い換えると、父権自我・陽自我は、自分の反動反射的攻撃・暴力性に無意識なのである。
 さて、ここで知性ないし理性の問題に触れると、父権自我・陽自我は言語能動性をもっているが、言語能動性自体は知性ではない。
 知性は他者、陰他者との相互関係から生まれると考えられる。他者、陰を肯定しないと知性ないし理性は形成されないと考えられる。
 しかし、父権自我・陽自我は、他者を否定・抑圧・排除・隠蔽するのであるから、知性は形成されないということになる。
 そう、言語能動性をもつので、知識はあるだろうが、知性は欠落すると考えられるのである。
 例えば、ある事態・事象に対して、父権自我・陽自我は、自我観念をある事態・事象に対して、抑圧的に提起するのである。
 その事態・事象自体を見るのでなく、自我観念を適用するのである。この自我観念が一見知性のように観えるが、実は、知識に過ぎないのである。
 これは、一種の妄想である。妄念である。そして、この父権自我・陽自我が強化されると完全に妄想・妄念の世界、つまり、狂気の世界に入って行くと言えよう。
 知性ないし理性から逸脱した妄狂魔の世界に入るのである。
そして、これが、今日の某国の支配・権力層の精神世界なのである。
 また、比較的若い日本の女性(一部)の精神世界なのである。
某国の科学者が出鱈目なのも、この父権自我精神力学にあると言えよう。父権自我知識表象はあるが、他者的知性・理性が欠落しているのであり、暴妄狂魔化するのである。

父権自我の二項対立形式のオートマティズム力学:陽から陰への転移力学:陰衝動に対する衝動的二項対立
テーマ:GP陰陽哲理学:ガウス平面と陰陽論の統合
先に以下を書いたが、今一つ、直截性に欠ける。
 結局、二項対立の自動性の力学の明確化である。
 心理学者のユングは中年の危機を指摘していた。
 その考えを敷延するなら、精神プロセスにおいて、初めは、陽主導であるが、ある時点から陰主導に転換すると思えるのである。
 陰主導へと転換したとき、それまでの精神力学では対応できないと考えられる。何故なら、それまでは、陽のエネルギーが主導的であったが、そのとき、陰のエネルギーが主導的になるからだえる。
 つまり、陰が賦活されるのであり、そのため二項対立力学は、いわば、新たな挑戦を受けるのであり、抑圧していた陰が活性化するので、それに対抗して、陽の抑圧が強化されると考えられる。
 つまり、陰の賦活とは、陰エネルギーの力動化であり、そのため、陽は不自然な抑圧体制を構えると思えるのである。
 つまり、陰陽図で言えば、陽の中の陰が賦活され、情動化するが、それに対して、陽自我が情動的に抑圧、制圧を行なうと考えられる。
 陽の中の陰の衝動に突き動かされて、陽自我は、抑圧を衝動的に行なうと考えられる。この抑圧衝動こそが、二項対立のオートマティズム化・自動化の原因と考えられるのである。
 そう、知的コントロールではなく、衝動的抑圧なのであり、そこには、不合理性が主導的なのである。いわば、狂気である。
 これで、本件の解明は深まったと考えられ、ここで留める。

比較的若い日本女性の父権自我化の力学について
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史
日本の女性の高慢さの力学の分析は必要である。
 端的に病的である。病的な高慢さ、慢心さである。「うつ病」予備軍である。
 とまれ、分析を試みたい。
 他者性、陰他者性、差異がない。また、当然、ココロを抑圧するのである。
 明らかに、陽自我中心主義である。
 先に以下の画像を活用して説明した。

父権自我(二項対立主義)の精神暴力力学について:陽自我は陰他者を憎悪し殲滅を目指す

http://gaiax3.ti-da.net/e4240444.html

陽の中の陰が陽自我の情動性であると見たのである。
 そして、陰(陰他者)の領域は抑圧されるのである。
 そう、問題にしたいのは、父権自我の自動性、機械的反射性、オートマティックな反射性である。
 二項対立性が自動化、反射化しているのである。
 他者に対して、二項対立的反応が反射的に発せられるのである。
 そこでは、他者の言への吟味はなく、ただ、否定、排除、威圧という反応があるだけである。
つまり、知性を欠いた二項対立の枠組みの反応なのである。二項対立形式の自動的反応なのである。
 このオートマティズムの力学を解明したいのである。
 とまれ、父権自我は二項対立の型があり、自我は他者に対して、優位であると独断形式(カント的に言えば、超越論的形式)があるのである。そう、一種の先験形式である。
 ここには、他者、差異がまったくないのである。
 さて、上の陰陽図であるが、ココロというものは、陽と陰との境界に存していると思われるのである。
 そして、父権自我にはこの境界が欠落していると思われる。
 正確に言うと、陽自我の同一性によって、この境界が排除されていると思われるのである。
 簡単に図示すると、

      陽自我
____↓↓↓____
 
     境界(ココロ)
___________

     陰他者領域

このような力学である。
 ↓は否定、抑圧、排除、隠蔽の力学である。
 そして、オートマティズムであるが、それは、上の陰陽図の陽の中の陰から発しているのではないだろうか。
 ここが自我情動-力動の発動源のように思えるのである。
 今は思考実験的に言うが、陰他者を抑圧しているので、その反動として、陽の中の陰が情動化、力動化するように思えるのである。そして、それが、オートマティズム化していると思えるのである。
 つまり、これは、端的に、自我の闇-魔-狂である。
 他者に対して、いわば、反射的に、この陽の中の陰が二項対立形式の暴力力学を発動させるように思えるのである。
 後でさらに検討したい。

検討問題:より氣のメカニズムに迫る:氣振動と生命発現の関係

画像やリンクは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12029061317.html


検討問題:より氣のメカニズムに迫る:氣振動と生命発現の関係


テーマ:生命力とは何か:氣と小食と腸内細菌


氣と生命体の関係について、水平形態秘数として5、垂直発展秘数として7、また、水と生命との関係から、水素結合・氣などを仮説してきた。
 しかし、氣の振動・波動から生命発現への力学はまだ、解明していない。
 そう、振動・波動から形態が生まれることは既に把握されている。
 以下にあるクラドニ図形は有名である。しかし、それは、氣振動ではなく、物質振動による形態形成である。
 とまれ、これまでの考察から、虚軸における陰陽振動・波動は、陰陽ガウス平面上で、イデアないしエイドスとしての原形を描くと考えられる。
 直観では、陰陽ガウス平面上に現象形態が折り畳まれているように思われる。
 形態の問題はとりあえず、以上で留めておこう。
 問題は、生命自体の形成である。
 端的に、生命とは何ぞ哉である。
 生きているとは何ぞ哉である。
 これまでの考えからは、氣振動・波動があり、それが、生命物質体、生命有機体を形成するのであり、氣振動・波動が生命の根源であり、生命物質体は、それによって維持・保持されているということになる。
 だから、氣振動・波動が衰滅すると、生命物質体も衰滅、つまり、死滅することになる。
 つまり、生命物質体はエントロピーだけに支配されることになる。
 このエントロピーに対抗しているのが、反エントロピーである氣振動・波動である。
 だから、生命とは、氣振動・波動による活動であるということになる。
 思うに、氣振動・波動は、一つのプロセスをもっているだろう。
 それも、秘数7の節・律動をもったプロセスである。
当然、開始があり終止がある。生から死へとである。
(追記:以上と以下は矛盾している議論である。以上では、氣にも生死があるとし、以下では、氣は永遠であると述べている。有限と無限である。思うに、表現の仕方がよくないのである。氣の場合、思うに、螺旋的回帰、螺旋的プロセスが永遠にあるのだろう。そして、一回の螺旋的回帰が一つの生死であり、次の螺旋的回帰が次の生死【来世】ということになるのではないだろうか。)
 この氣振動・波動プロセスであるが、それは、どういう力学をもつのだろうか。
 虚軸に存するから、どうも、それ自体は消滅しないように思えるのである。永遠の生命である。
 実軸は量子軸であり、ここは生成消滅する。しかし、虚軸は氣軸であり、保持されるように思えるのである。
 思うに、スピリット(霊)というものは、虚軸の氣と重ねられるのではないだろうか。
 生きている時は、意識は実軸から現象界へと志向している。
 しかるに、死んだ時は、意識は現象界、実軸から後退して、虚軸へ回帰しているだろう。だから、虚軸界は霊界ではないだろうか。
 ただし、原点MPには、太極ないし太一が内在超越的に存する。だから、それを含めて、霊界と言うべきかもしれない。
 いわば、太陰陽、太氣というべき様態でスピリット(霊)が存するのではないだろうか。
 生命の議論からスピリットへと展開したが、今は、ざっと以上のように留めておこう。

 
クラドニ図形 - nifty
ドイツの物理学者クラドニは、18世紀末ごろから弦や棒の振動の研究を始め、やがて「音響学の父」と呼ばれるようになった。彼は水平に置いた板や膜が横振動をしている時にその上に砂を撒くと、その砂は節線というほとんど振動しない部分に集まることを発見した。この砂が作るパターンは通常クラドニ図形と呼ばれていて、現代でもギターの胴板の振動を調べる時などに使われている。

 下図は理想的な膜の上のクラドニパターンと周波数の比率関係を示した実験結果である。これはティンパニ型に張られた膜に、ドラムの周囲から中心に向かって1/4の点に震動源を据えて振動数を上げて行った時、膜の上に置かれた砂が順次作る幾何学的パターンとその時の数値データである。膜上の砂が最初に円状になる時の周波数を基本の1として、以下周波数をどんどん上げて行くと様々なモードができては崩れていく。しかしその後のパターンと周波数には一定の関係比がある。

 ところで通常のドラムはピッチ感、つまり音の高さを音名で決められるような高低感がないが、ティンパニケルトドラムやインドのタブラなどにははっきりしたピッチ感がある。また理想的な弦では上音(基本音より周波数の高い音)の周波数は倍音関係にあるが、理想的な膜ではこのようなモードの周波数は倍音関係になってはいない。これは線の振動が1次元的なものであるのに対し、膜の場合は面的・2次元的な振動であることと関係がある。振動中でも基本的に静止したままの位置である振動の節も、弦の場合は点であるのに対して、膜の場合には2種類の節線が存在する。すなわち全体を2分する直径方向の節線(a)、およびドラムヘッドの周りの形からくる同心円の節線(b)である。ここではこの2種類の節線を図の下に2つの数字(a b)という形で表現してある。

 ティンパニに限らず膜状の打楽器にはその素材や大きさや張力によって、基本の振動周波数が変わってしまう。例えば基本モードの周波数は張力を2倍にすれば半オクターブ上がり、膜の直径を短くすれば高くなる。20インチ径の膜の基本周波数は32インチのそれより60%高くなる。(1:1.6→1.6:1というように逆数関係がある。この関係は月と地球の公転周期の関係にも似ている。)

※周波数比の基音の振動数は次の式で与えられる。f1=(0.765/2a)x(T/ρ)1/2
(aは膜の半径、Tは膜の縁の単位長あたりの張力、ρは膜の面密度)

1.
神が音に託した「指紋」 クラドニ図形 ∞ Resonance Square - YouTube
► 3:52
www.youtube.com/watch?v=V5acI4XPGNM2012年5月11日 - 4分 - アップロード元: eiπ + 1 = 0
物質と音との間には固有振動数というものがあって、特定の周波数で共鳴を起こす。 そのときの振動の強弱によって ...
2.
塩の模様だけじゃない!クラドニ図形を駆使したミュージックビデオが凄い ...
a-mp.jp/article/3842

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音を可視化する不思議な図形、あれはクラドニ図形と呼ばれているの. 金属・
プラスチック・ガラス・ボウルなどにピンと張ったラップなどの平面にスピーカーなどで
振動を与え音程を変えると、共鳴周波数において平面の強く振動する部分と、振動の節
となり振動 ...
3.
ずっと眺めていたくなる! ハイレゾウォークマンが不思議な“クラドニ図形 ...
getnews.jp/archives/467473

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2013年12月3日 ... 音が図形化するこの現象は、ドイツの物理学者エルンスト・クラドニの名前にちなんで
命名された“クラドニ図形”というもの。砂を載せた板を特定の周波数を持った音などで
振動させると、平面の振動する部分と振動の節になって動かない部分が ...
4.
砂が描く幾何学模様「クラドニ図形」が超凄い! - NAVER まとめ
matome.naver.jp/odai/2135090471858931701

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2012年10月22日 ... 周波数に応じて幾何学模様の形が変わっていくのが凄いです。

父権自我(二項対立主義)の精神暴力力学について:陽自我は陰他者を

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-12028278793.html


父権自我(二項対立主義)の精神暴力力学について:陽自我は陰他者を憎悪し殲滅を目指す


テーマ:哲学:叡知学、哲理学、哲科学


父権文明は暴力文明(戦争文明)であるが、その構造、精神構造、心的構造を、改めて解明したい。
 今日、父権主義は、日本では、女性、比較的若い女性に見られる。二項対立精神である。平俗に言えば、○×精神である。正誤・正邪精神である。
 それも、「私」は正しく、他者は間違っているというものである。
(女性の場合、シュタイナー的に言えば、アストラル体(感情・欲望身体)、私の用語では、感性体が主導的なので、男性よりも、二項対立が酷烈になるのであるが、それは、ここではおいて置こう。)
 不連続的差異論の段階に戻ると、私は連続的同一性という概念を立てた。これは、陽自我が陰他者に対して行なう内的行為(精神行為)である。
 つまり、自我が他者の不連続(非連続)的差異を否定して、同一性化するのである。そう、この連続的同一性化が端的に精神暴力である。
 これは、端的に傲慢であるが、それが当然となるのは、他者に対する感性、つまり、ココロが欠落している、あるいは、排除、埋没しているからである。
 そう、これは、当然、野蛮な精神である。しかし、これが、現代の一般的な日本人の精神なのである。
 他者性の欠落、ココロの排除、道徳・倫理・仁倫・倫道の欠落はどこから生じたのか。
 簡単に言えば、父権精神からであるが、もっと木目細かく見よう。
 そう、これは、精神の病と関係するのである。(シュタイナーは精神病という言葉を嫌悪していた。精神は本来、病気にはならず、身体が病気になるというようなことを説いていた。確かに、身体が故障していると、精神が異常になることは考えられる。今は、いちおう、精神の病ということを考えたい。)
 さて、以上は既述のことであり、新たに、精神暴力の力動・情動、あるいは衝動の根因について考察を行ないたい。
 精神暴力の力動・情動・衝動の根因は、自我・陽にあるのか、それとも感性体・陰にあるのか、それとも、両者癒着状態にあるのか。
 陽自我は、陰他者を支配しようとする。何故か。
 それは、陽自我にとって、陰他者は、異物であり、「気に入らない」ものだからである。
 「わたし」として、陰他者を支配したいのである。
 問題は情動精神力学である。(情氣という言葉を造語してもいいだろう。衝氣という言葉もありえるだろう。)
 陽自我に情動性があるのか?
 情動は陰である感性体にあると見るのが本来である。
 すると、陽自我の暴力の様態とは何なのか。
そう、暴力様態の問題である。
 いったい、陽自我の様態とは何なのか。
 「わたし」の様態とは何か。
 やはり、「わたし」の感情はあるのである。それは、陽における陰である。
 陽の陰が、陰他者に反発するのである。


http://gaiax3.ti-da.net/e4240444.html


 だから、陽の陰に暴力情動があると言えよう。
 そう、陽自我とは陽的陰と結合しているのであり、自我情動をもつのである。
 そして、この自我情動性が陽自我暴力力動の正体・本体と言えよう。
 そして、自我意識は、この自我情動暴力に対して、無意識であるのが、陽自我の精神暴力の根因であると言えよう。
 これで、陽自我精神暴力のメカニズムを解明したと言えよう。
 一大問題は、この陽自我精神暴力をコントロールする精神文化、叡知の存在である。
 現代日本では、あるいは、現代世界では消失しているのである。
 有り体に言えば、ココロの文化の消失である。原因は当然、唯物科学のせいである。技術ではない。技術は、ココロに関係すると思われる。
 では、ココロ文化の消失のメカニズムは何なのか。
 結局、陰他者の認知の有無の問題である。(うつ病と言われる症状はこれと関係すると見ている。)
 陽自我は基本的に独一性をもっている。
 つまり、自己中心性である。「私は絶対的一(いつ)である」ということ視点である。言い換えると、「唯一神」性である。
 だから、他者、陰他者に対しては、否定的に対応するのである。他者を排除、強く言えば、消滅、殲滅、殺戮したくてしょうがないのである。
 他者は居て欲しくないのである。死ねである。
 つまり、陽自我は本質的に殺気をもっているのである。
 そして、この殺気の対象の他者であるが、当然、陽自我の対極、対蹠的存在が対象となるのである。
 そう、陰他者である。(ユダヤキリスト教的父権文明である西洋文明にとっては、東洋文明、母権文明である。)
 結局、自我の精神暴力の対象は陰他者である。これが憎悪・嫌悪・破壊の対象なのである。
 日本父権民族は日本母権民族を嫌悪・憎悪・嫌忌し、殲滅・消滅・殺戮したいのである。